0時過ぎからナースコール連打のAさん(女性)が全く寝てくれない。連打の合間をぬって、他のかたの巡視に行くと、認知症のおばあさんの両足がベッドからはみ出ていた。
「トイレに行きたい」とのこと。車椅子でトイレへお連れし、便座に座って頂いたところでAさんからのコール。「はぁ~」と深いため息をついてしまった…
介護老人保健施設とは…
15年以上前の、ぼくがまだ『介護老人保健施設』のフロアの主任として現場で働いていた頃のお話。
その施設は5階建て。そのうち2~5階が入居者さんのおられるフロアで、ひとつのフロアに20名のかたが生活をされていた。
『介護老人保健施設』略して『老健』は、中間施設という位置づけで、何らかの病気やケガなどで病院に入院された高齢者の方が、治療を終えて退院可能な状態にはなられたものの、自宅に戻るのはまだ難しいという段階で入所される施設である。
つまり、自宅に帰る為のリハビリをする役割の施設ということ。もっと言うと、リハビリをすれば自宅に帰れる可能性のある方が入所されるのが基本の施設ということになる。
だが現実は…
病院から退院できる状態にはなったものの…
家族の判断として、
➡亡くなるまで生活ができる『特別養護老人ホーム』に入居申し込み
➡その入居が決まらないうちに、病院の退院期日がせまってくる
➡「とりあえず生活する場所」として入所する
➡入所しながら、特養の入居が決まるのを待つ
という側面がある。
つまり、老健に入所されている方ご本人の思いとは別で、2種類の異なる「ご家族の目的」があるということになる。
そして施設としては、リハビリをしてご自宅に帰って頂くことが収益につながるというシステムがある為、本来の目的で入所してくださるかたを増やしたいのである。
苦肉の策
夜間、「トイレに行きたい」という認知症のおばあさんをトイレにお連れし、座って頂いたところで、Aさんからのナースコール。
さっきからコールボタンを何回押してこられたのかわからない。居室に伺っても、特に何の用事もなかったりもする。つまり、Aさんも認知症が進行している方なのだ。
どうすべきか迷った。本来であれば、目の前のおばあさんのトイレが終わってからAさんの居室に向かうべきだが、Aさんからコールがあったらすぐに駆けつけないと、ご自分で立ち上がり、転倒されるリスクが非常に高いのだ。
しかも、以前に転倒して頭を打たれた際、娘さんが施設に怒鳴りこんできたこともあった。だから迷った。
フロアの入居者さん20名に対し、夜勤は1名の体制。ヘルプを呼ぶにしても、他のフロアの夜勤者に来てもらわないといけない為、その夜勤者が担当するフロアがその間、誰もいない状態になるというリスクを背負うことになる。
夜勤には看護師も入っているのが老健のスタイルなので、本来であれば看護師を呼べばヘルプをお願いすることが可能なのだが、この日は、また間の悪いことに、体調の悪い入居者さんの受診に付き添いで行っており、ちょうど不在だった。
つまり、ぼくだけで何とか対応しないといけない状況だったのだ。
仕方がない…
トイレに座っている方に「すぐ戻りますからそのまま座ってて下さいね」と言い残し、Aさんの居室までダッシュした…
どうすれば良かったのか?
居室の扉を開けると、やはりAさんはベッドから立ち上がろうとしていた。慌てて身体を支え、転倒を防止した。その瞬間、強烈なウンチのニオイがした。
Aさんは下半身がウンチまみれだった。パジャマのズボンと紙パンツ、パンツの中に入れている尿取りパッド、肌着、かけ布団、シーツなど、至るところにウンチがついていた。
トイレに座って頂き、身体をキレイに拭かせて頂く。パンツも肌着もパジャマも変え、布団とシーツも新しいものを(あとで丁寧に整えるつもりで)簡易的に敷く。
それからAさんに、ベッドに横になって頂いた。
かなり時間がかかってしまった…
急いでトイレに座りっぱなしの方のところに戻ると、車椅子にもたれるような姿勢で尻もちをついていた。
便座の前に置いた車椅子に移ろうとしてバランスを崩した感じ。手すりで打ったのか、額が赤く膨れあがっていた…
施設から看護師に電話すると、「頭を打ってるんなら、後から何か体調の変化が起こるかも知れない」ということで、すぐに救急車を呼ぶよう指示を受けた。
指示通りに救急車を呼び、近くの病院に搬送してもらうことになった。ぼくが同行した。幸い、大事には至らず、短時間で施設に戻ってくることができた。
翌朝、この転倒事故の報告を行うと、事務長から「お前、なんで転倒させたんや?」と言われ、はらわたが煮えくり返るほどムカついた。
転倒された方のご家族は、「リハビリ目的」の方だった。
つまり、この事故で骨折などして入院したり、安静にしないといけなくなった場合、リハビリが出来なくなり、自宅に帰れない状態になってしまうかもわからなかった、ということでのご立腹だった。
そして、Aさんの娘さんは「特養待ち」を目的とされている方だった。
そんなことを考えて、転倒するかも知れないお2人のうちのお1人を優先的に対応するなんてこと、出来るわけがないし、やろうとも思わない。
事務長のまさかの発言に、ぼくは本気で退職を考えた。
こんな人の元で仕事してること自体がバカらしい。そう思った…
自分の判断は正しかったのか?
特に人手が少ない夜間帯で、複数の方からのナースコールに同時に対応しなければならず、優先順位をつけて動くものの、転倒事故を防止できなかったというような経験をしたことのある介護士さんは、めちゃくちゃ多いと思う。
優先順位をどのようにつけるかというと、やはり、「認知症の影響などで、事故が発生するリスクが1番高い方から」というのが一般的だと思うが、ぼくはこの時の判断をする際、「以前、施設にクレームを挙げてきた娘さん」のことが頭をよぎってしまった。
結果、目の前でトイレに座っている方に「ちょっと待ってて頂く」という判断をしてしまった。そう考えた時、事務長に対して腹を立てた自分に、「お前も一緒じゃないのか?」と幻滅してしまった。
何が正解だったのか、わからなくなった…
それでも理解してほしい。
頭を打撲したおばあさんにはほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいで、間違った対応をしてしまった、という後悔がしばらく尾を引いたし、今でもあの場面は鮮明に思い出せてしまうほど、ぼくの心に刻まれている。
ではどうするのが正しかったのか?
老健に入所している目的や、娘さんがクレームを挙げてこられたことがあるという、余計な情報を知らなかったとして、ぼくはどのような判断をし、どのように行動しただろうか?
同じような場面でお2人ともが安全だったとして、それは「たまたま運が良かった」だけではないだろうか?
そんな状況でも何とか転倒しないようにと、介護士は日々、神経をとがらせながら施設内を動きまくり、入居者さんの安全を守っている。
ご家族の方のご理解や上司の理解がなく、事故が起こってしまったことや、それが原因でケガをしたり入院せざるを得ない状況になったことなどを、全て介護士の責任とされると、ほんとにやり切れない気持ちになる。
仕事をサボったり、本来すべきことをしていなかったという「介護士の怠慢」が引き起こした事故なら責められても仕方ないと思うが、必死で安全を守ろうとしても、起こってしまう事故があるということはほんとに理解して頂きたいなと思う。
『入居者さん20名に対して夜勤者1名』の基準自体を、そろそろ現実に合ったものに変更する時期なんじゃないかと、本気で思う。