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  • だんだんプロになっていく

    最初から『介護士』な人なんていない。 ぼくが介護士として仕事を始めたのは、29歳の頃。 それまでは家庭の事情で、いろんなアルバイトを昼夜問わずに掛け持ちしながら、お金を稼げるだけ稼ぐ必要があったので、将来、こういう職業に就きたいといった希望や夢なんて全くなかった。 そんなぼくが、成り行き任せに介護士をすることになったので、「志」なんてあるわけもなかった… 何も持たない『介護士』としてのスタート 29歳で介護士としてデビューしたのは、家の近くに新しくできた『住宅型有料老人ホーム』で、そのホームが新設されるにあたり、半年後のオープンに向けて新入職者を募集していたのが、ぼくが介護士になるきっかけだった。 全くの無資格でなんの経験もない29歳の男性が面接に受かるはずもないということで、急遽、「ホームヘルパー2級(当時)」という資格が最速で取得できる専門学校に申し込んだ。 週5日、1日5~6科目の座学を約1ヶ月と、5日間の実習を経てヘルパー2級を取得。 実習をさせて頂いた特別養護老人ホームのヤバさには面食らったが、「ぼくはこんな施設では働くまい」「こんな介護士にはなるまい」という反面教師として今でも役立っているから、ある意味では勉強になったように思う。 そうして資格を取得して臨んだ有料老人ホームの面接で、無事に採用して頂くことができた。 その後、オープンの1ヶ月前からホームでの研修という形で勤務が始まった。 初日、集められた職員を見てぼくはビックリした。 同法人の別の施設で働いていた男性が介護部の責任者である主任としておられ、オープニングスタッフの中から経験豊富な女性が副主任として紹介された。 あと2名だけ他施設で経験のあるかたがおられたが、それ以外の人は、ぼくを除いたほぼ全員が、「卒業時に介護の資格を取得できる学校」を卒業したばかりの若い職員ばかりだったのだ。 「え?こんな未経験者だらけで大丈夫なん?」と思ったが、どうやらこのメンバーで本気で頑張るらしかった。 研修が始まると、ぼくだけが圧倒的に介護の知識がないことにさらにビックリした。 そりゃそうですよね。たった2ヶ月足らずの資格取得の為だけの勉強で、経験豊富やかたや、専門の学校で学んできた連中と渡り合えるわけがない。 なのに、いろんな職場経験は豊富なので、雑務だけは誰よりもできた。 そのことが「災い」し、開設準備期間中に、もう1人の副主任に抜擢されてしまったのだ。 そんなの、プレッシャーでしかなかったが、給料が一般職員に比べて上がるのですぐに首を縦に振ってしまった。 こうして、未経験で知識不足&介護士としての志も何もないままの副主任が誕生した。 迎えたオープン初日。いきなり、とんでもなく拒否の強い寝たきりのおばあさんが入居してこられ、ロビーで大絶叫! ぼくはどうしたらいいのかわからず、他の職員と一緒にただ黙って見ていることしかできなかった。 だがその数日後、ぼくはこのおばあさんに、介護士としてのやりがいを教わることになる。そして介護職という仕事にのめり込んでいくことになるのだ。 ※このお話は、『介護職のやりがいを教えてくれた人!18年間介護士を続けられる理由とは?』という記事に詳しく書いています。 誰でもやろうと思えばできること 副主任という立場上、他の職員が対応に困るような入居者さんの対応を率先してせざるを得ないという状況が、多くの失敗と、ごくまれではあるが成功体験をぼくにもたらしてくれた。 そうして徐々にに介護士として成長していった。 いろんな事情でそのホームを退職し、次に選んだ職場も、家の近くの新設の施設だった。 今度は『介護老人保健施設』のオープニングスタッフ。 この施設は介護経験者を多数採用しており、たった1年半の経験しかなかったぼくは、一般職員からのスタートだった。 だが、ここでも、他の職業を多数経験していることが役に立ち、さらに有料ホームでの1年半の介護経験と副主任経験がプラスされていた為、開設準備期間中からちょっと目立っていた。 オープニングの施設は、役職者として予定していた職員が急遽、入職してこないなどのハプニングが起こることも多い。 この時は、開設直後から事業所責任者と考え方が合わないという理由で、副主任にすぐに欠員が出た。 そしてぼくが抜擢された。 さらに半年後、あるフロアの主任が退職。 ぼくが選ばれた。 この施設で主任は、介護部長に次いで介護部として2番目の役職だった。 トントン拍子に役職が上がり、経験したことのない管理業務をする必要があったが、やりながら覚えたらどうにかなったし、何より入職時に比べて給料はだいぶ上がった。 なぜぼくを抜擢してもらえたのかを聞いてみたら、「たっつんさんは人が嫌がることを率先してやってくれてるでしょ?だからです。」と、介護部長が言ってくださった。 ぼくは、自分が29歳という、人よりだいぶ遅いタイミングで介護士になった。 周りの人より知識も経験もなかった。 だから、人がしないようなことも率先してやった。 出会った入居者さんとの関わりの中で、いろいろな学びを得ることで、周りの人に追いつこうとした。 そしてそれは、誰でもやろうと思えばできることだったと思う。 誰でもやろうと思えばできることをやってきた。それを認めてもらったのは嬉しかった。 やってみないとわからないから、とりあえずやろう それからぼくは32歳で介護部長になり、それ以降現在に至るまでに、2法人5施設で介護部の責任者として、15年間、現場に立ち続けている。 介護士は低収入と言われるし、実際にそうだ。 介護部の責任者のぼくですら、基本給の安さには驚きを隠せない。 だが、役職手当などもろもろついたら、世間一般的な47歳のかたの平均収入と同じくらいは頂けていると思う。 介護士の低収入への対策には、「昇格で補う」という方法がある。 が、これを嫌がる職員が多いこと多いこと。 ただでさえしんどい業務に加えて、管理業務をするのが大変そうだから嫌だという人が圧倒的に多いのだ。 (もちろん、その素養のないかたがおられることも事実ではあるが) だが、低収入を理由に介護士を辞めて、これまで培った知識や経験、人間関係などを全部捨てて、他の職業に新たにチャレンジすることのほうが大変だと思ったりするが、どうだろう? 役職に就きたがらない人が多いということは競争率も低く、なりやすいとは思えないだろうか? やったことのない業務に対して、こなす自信がないからという思いはないだろうか? ぼくは家族のために少しでも収入を増やしたくて、昇格の話を頂いたら、全部即答で、ありがたくお引き受けさせて頂いた。 当然、したことのない業務や足りない知識と、簡単には得られない職員からの信頼に苦労もしたが、得るものもまたとてつもなく多かった。 給料も当然上がった。 人間関係など、いろいろな理由で退職を考えるに至った時、役職に就いているという経歴が、次の就職先を探す際に大いに役立ったし、なんなら条件を自分で選ぶことさえできた。 後輩に、自分よりも明らかに認知症のかたの関わりが上手く、介護センス抜群の天才が現れた時、その天才の上司でいられる為にどうしたらいいかを考えた。 「たっつんさんの元で働いていても、自分の成長になりません」と言う理由で退職されてしまうことを恐れた。 そこでぼくは、介護保険制度の勉強や認知症についての勉強と、リーダーシップについての勉強をした。 本を読み漁った。 結果的に、知識や、指導する時の説明の上手さ、職員との関わり方などで、その天才に「自分にはできないっす。部長から学ばせてもらいます」と言われるまでになれた。 みんな最初は、何の武器ももたない状態からのスタートだと思う。 だが、自分自身の現在地を正確に把握し、周りの人と比べて足りないところを補うための工夫や、自ら率先して体験することで、徐々に徐々に、プロの介護士になっていくのだと思う。 自信がないからこそやってみる。自ら飛び込んでみる。 このことが、ほんとに大事だなって思いつつ、そういう人があまりいないなって実感から、この文章を書きたくなりました。

  • 認知症の母を施設に入居させるまで。ひとり娘の奮闘記②

    前回のお話。 80歳を超えたあたりから物忘れの症状が出始めた母。 病院で検査を受け、初期段階の認知症であると診断された母は要介護2と診断された。 ひとり暮らしを続けてもらうためにも、ひとまずデイサービスを受けてもらおうとしたが、問題が勃発する。 デイサービスに行きたくない! それまで母は毎日バスに乗り、ひとりで駅前をふらついていた。 基本的に家でのんびりできる人ではないことや、高齢者は申請すれば市営バスを乗り放題であることもあった。 しかし、母は初期段階であるとはいえ認知症である。 万が一迷子になって、色々な人にご迷惑にならないとも言いきれない。 そんなこともあってデイサービスを始めようとしたのだが。 まず、お迎えのバスに乗らない。 「私には必要ない。興味もない。だから行きたいときに行く」 デイサービスは行く曜日をきちんと設定してプランを作るものなので、そんな都合よく利用できるものではない。 しかし、ケアマネージャーさんはこの母の提案を受け入れてくれた。 そんな風に始めたデイサービスだったが、結果的に母はほとんど通わなかった。 母ははかなりの人嫌い 愛想よくふるまうことは得意だが、基本的にわがままなので人に合わせることが好きではない。 子供の私に 「人は利用するものだ。利用されるな」 なんて説教をした人である。 そんな母にはもちろん友人はほとんどいなかった。 私の知っている限り、地元にいる友人が1人と、同じ会社に勤めていた人1人だけである。 ちなみに引っ越してくる前は合唱やお琴などさまざまなサークル活動にも参加していたようだが、どれもこれも長続きはしなかった。 とにもかくにも、母は1人でいることの方が好きなのだ。 人が集まって雑談をするような場所は、基本的に好まない。 数か月間様子を見た後、ケアマネージャーさんからは、 「訪問介護とデイサービスの両方が使える施設を利用してはどうか」 との提案を受けた。 訪問介護を受けることに デイサービスに来ないのであれば料金がもったいない。 そのうえ、薬を毎日服薬することが80歳過ぎてもほとんど無かった母は、病院で処方された認知症の薬をほとんど飲んでいなかった。 1~2か月に一度、私が病院に連れて行くのだが、母の家で残量を確認すると半分以上が残っていたのだ。 そのため、服薬管理と体調管理をしてくれる訪問介護にして、気が向いたときにデイサービスを利用できるほうが、母に向いている、と、提案してくれたのだ。 私はこのケアマネージャーさんをかなり信用していたので、できればこの施設で面倒を見てもらいたかったが、訪問介護を扱っていない以上仕方ない。 そしてケアマネージャーさんから紹介された施設に母を連れて行き、手続きをした。 そこのケアマネージャーさんは地域包括センターのケアマネージャーさんから話を聞いていて、快く受け入れてくれた。 しかし、ここでもやはり、事件は起きるのである。 私はそんなものを頼んでいない とりあえず始めたのは訪問介護だった。 毎日朝、家に訪ねて行ってもらい、服薬と体調を見てもらう。 およそ10数分の行程だ。 このくらい娘の私がやれ、と思われる方もいるかもしれないが、私には小学生の娘が2人いた。 そして介護施設での仕事もある。 私が自宅から車で15分のところに住んでいる母のところに毎日行って、それらを確認できる時間をとることはとてもではないが難しかった。 母は訪問介護すらも拒絶 家に入られるのは嫌だから、と玄関での対応にしてもらったにも関わらず、だ。 訪問介護を契約したことをすっかり忘れ、 「おまえは誰だ。私はそんなものを頼んだ覚えはない」 と、怒鳴り散らしたのである。 しかも1度や2度ではない。 かなり頻繁に罵倒していたらしいのだ。 また、訪問介護が来る前に出かけてしまうこともあった。 朝9時に予定しているのに、それよりも早く出かけるのだ。 駅前の店なんて、喫茶店くらいしか開いていないのに。 もちろんデイサービスのバスにも乗らなかった。 というか、拒否をした。 そこでも数か月様子を見てもらったが、とうとう施設が根をあげた。 「受け入れて頂けないのであれば、これ以上の対応は無理です。お金ももったいないですし」 私は頭を抱えることしかできなかった。 そしてこの後、驚愕の事実を知るのである。 いくら使っているのかわからない ある日、母が訪問介護とデイサービスの料金に文句を付けてきた。 施設の利用料は全て母の預金から引き落としされている。 しかし、施設利用の契約をした記憶が無い母からすれば、訳の分からない料金が引き落とされている、とご立腹なのだ。 母は通帳を私に見せ、 「どういうことか」 と怒鳴り散らす。 認知症になってから母はイライラして怒鳴り散らすことが多くなっていた。 私は通帳を見ながら、施設に訪問介護とデイサービスの契約をしたこと、その場には母もいたことを告げる。 そこで私は驚愕の事実に気が付いた。 80歳を過ぎた母は基本的に年金暮らしだ。 もちろん年金だけでは生活することは困難なので、退職金などの貯金を切り崩して生活をしてきた。 子供のころ、裕福な生活などしてこなかったし、特に今は残金も限られているのだから、母もそれを理解して生活していたはずだった。 ここ数か月では頻繁にお金がおろされていた 母は通帳を2つ持っていた。 年金が入ったり家賃が引き落とされる通帳と、退職金などの貯金がある通帳。 基本的に貯金のある通帳から引き落とし通帳にお金を移し、そこから引き落として生活費にする、というめんどくさい行程を踏んでいたのだ。 だからこそ、あまりの引き落としの回数の多さに私はめまいがした。 試しに母に1週間レシートを取って置くように伝え、1週間後に再び確認する。 しかし、レシートをとっておいて家計簿をつける、なんてことをしてこなかった母は、私がレシートを取って置くように言ったことをすっかり忘れていた。 それでも残っていた2~3日間のレシートを見て、私はめまいを覚えた。 母は、毎日駅前をふらつき、お茶を飲み、ランチを食べ、帰りにお弁当を買って帰ってきた。 その合計額が、なんと1日あたり2,000~3,000円だったのだ。 毎日こんな生活をしていたら、単純計算で1か月60,000~90,000円を食費だけで使っていることになる。 母にそう指摘したのだが、 「私はそんなに使っていない」 の、一点張りだった。 自分が毎月いくら使っているのか、理解できていない これはまずい。 うちには母を援助できるような余裕はない。 ただでさえこれからお金のかかる子ども達が2人いるのに。 最近の母は家賃・光熱費・食費等を含めて1ヶ月に20万円程使っていることになる。 このままのペースでは、早かれ遅かれ貯金が底をつく。 そうなると生活保護を受けることになってしまう。 こんなお金を無駄に使ったことで、お金が無くなったから生活保護なんてありえない。 しかし、今ならまだ間に合う。 私がお金を管理していけば、あと数年はなんとかできるだろう。 私は母を説得し、お小遣い用に使っていなかった通帳を渡して、そこに生活費を入れるから、他の通帳は私が預かることにした。 もう今更だが、やっぱりここでも問題は起こった。 私のお金を返せ 私は母が銀行に乗り込むのを防ぐべく、事前に銀行に訳を説明しておいた。 電話口で銀行の偉い人に、 「認知症の母がお金を管理できないため、娘の私が預かっている。母が銀行に来ることがあると思うが、娘が預かっていると説明してほしい」 と、頼み込んだのだ。 銀行側はそんなことに対応していない、と言っていたのだが、私の必死の頼み込みを受け、しぶしぶではあるものの了承してくれた。 そしてやはり、母は銀行に 「通帳が無い」 と、言って訪れた。 それもほぼ毎日。 そのたびに窓口の人は私に電話をかけ、私はその都度、何度も母に同じ説明をした。 それと同時に、私は母に宅配でお弁当を頼まないか、と説得をし始めた。 せめて外で食べることを辞めてくれたら、少しは節約できる。 できればデイサービスに行ってお昼ご飯を食べてもらいたい。 なんならデイサービスにお昼ご飯を食べに行くだけでも構わない。 しかし、母は頑としてうなずかなかった。 「私は私の好きなものを食べたい。私のお金を私が好きに使って何が悪い」 その都度、私は母に残金が厳しいことを伝えるのだが、母は全く理解してくれなかった。 自分の理解したくないこと、わかりたくないことを率先して忘れていく 1か月ほど母の銀行通いは続いたが、何とかどうにもならないと理解したらしく、今度は私を罵倒するようになってきた。 「お金を返せ」 「親に向かってどういうつもりだ」 「私が何か迷惑をかけたか」 その他にもいろんな言葉を浴びせられた。 私はその都度、お金はきちんと渡してある通帳に振り込んでいること、このまま好きに使い続ければお金が無くなることを説明する。 しかし、その日は何とか納得しても、次の日には同じことが電話で繰り返される。 日によっては私のうちにきて、玄関で喚き散らすこともあった。 正直、近所から警察を呼ばれかねないレベルだった。 この時期、私はかなり精神的に追い込まれていた。 母の今後を考えて色々やったのに、何一つ報われなかった。 薬を飲むことを忘れ、適切なケアも拒否し、お金を湯水のごとく使いたがる。 そして今後の自分の生活を一切考えていない。 そんな母のせいで日々の生活に疲れ果てていた私は、1つの大きな決断をした。 仕事をやめよう… 私は第二の人生に、と始めた介護の仕事を辞めることにした。 とてもではないが、精神的に人の介護ができる状態ではなかった。 しかし、私が働かなければ家計が回らないので、必死で在宅でできる仕事を探した。 私は学んだ。 人を介護することと、親を介護することは大きく違う。 介護の現場で他のスタッフに相談しても、返ってくるのは 「ケアマネージャーに相談してみれば?」 「他に頼れる人はいないの?」 だけだった。 介護の現場で働いていても、結局は仕事だし第三者の目線でしか付き合えない。 というか、そうしなければやってられない。 それに介護職の人の中には、実際に自分の親の介護をした人はいなかった。 介護に関するいろいろな知識はあったが… しかし、それは仕事をするために必要なことでしかなかった。 逆に私に聞かれたとしても、同じ返事しかできなかっただろう。 無料の介護相談ダイアルにも電話した。 返ってきたのは 「大変ね」 「いろんな人に相談してみるといいよ」 だけだった。 愚痴を聞いてもらう分にはいいかもしれないが、何に相談をしても正直これといった解決方法が出なかった。 私の年齢で、親の介護をしている人はいなかった。 だから誰に相談しても、返ってくるのは 「大変ね」 だけだった。 違う。 そんなことを言ってほしいんじゃない。 具体的な解決策を知りたいのだ。 この頃の私はどん底だった この頃の私は、外に出るのも、電話が鳴るのも怖かった。 外に出たらそこらをふらついている母と会うかもしれない。 電話がなると、また罵倒されるのだろう、と気が滅入った。 しかし、家にいたとて、いつ母が怒鳴りに訪れるのかわからない。 私には安心できる時間は全くなかった。 これがあと何年続くのか。 私はどうしたらよいのか。 真っ暗闇の中、私はうつ状態に近い状態になってしまった。 ③に続く。

  • 新しい常識は、非常識の中から生まれる

    新しい常識は、これまで非常識とされていたことの中から生まれると思っている。 今、常識とされていることに誰も疑いを持たず、ずっと同じことを繰り返すだけだと、それに合わない人やそぐわないことが出てきても、「非常識」というレッテルを貼るだけで終わる。 全てのことは時を経てどんどん変わっていくにも関わらず、常識に捉われすぎて変化を嫌えば、発展や進化、成長は見込めない。 ぼくは、非常識の中に価値を見出す人でありたいなって思います。 食事介助の人には食事用エプロンが当たり前 食事介助が必要な状態の方には、お口から食事がボロボロこぼれて服が汚れるのを防止する為に、ビニール製のエプロンを付けて食事をして頂くのが、高齢者施設の当たり前の食事の光景である。 黄色いお花の柄のエプロンや、赤いチェック柄のエプロンなど、色とりどりのエプロンが並ぶ。 ぼくはあのエプロンがどうにも苦手。 「認知症や身体の麻痺などで上手くお箸やスプーンを使えないけど、なんとかご自分で食事を召し上がられる方」や、「介護士がお口に運び入れるまでをお手伝い(食事介助)させて頂くが、どうしてもお口の中のものがこぼれてしまうような方」には、エプロンをして頂いてもいいと思う。 だが、介護士による食事介助でお口の中のものがこぼれてしまわない方であれば、介助する側がお口に運ぶ際にこぼれないように注意すればいいので、エプロンは不要だと思っている。 そこで。 「食事介助が必要な方にはエプロンをする」を当たり前だと思っている介護士さんは、一度「エプロンなし」を試してほしいなと思う。 エプロンがあると服を汚す心配がないので、スプーンに乗せる一口の量にあまりこだわっていない状態。 ところがエプロンがないと、自分の「さじ加減」によってはこぼしてしまう恐れがある。 そうすると、こぼして服を汚してしまわないように、お口の中に確実に入れてもらえる量しかスプーンに乗せないようにするし、その方の食べるペースをより理解しようとする。 結果、のどを詰めるリスクが減るし、食事のお手伝いが上達する。少しならタオルで拭けるしね。 高齢者のおフロは週2回が当たり前 「おフロに週2回しか入れないって、自分だったら嫌だな」と思って、入居者さんの入浴の回数を、週3回にしてみたことがある。 高齢者施設の基準で、「週2回以上の入浴」と定められているからと言う理由で、だいたいの施設で週2回が当たり前になっている。 これをどうにか打破できないかと考えた。 ただ、ぼくの勝手な思いだけで職員みんなの負担になってはいけないので、介護部のみんなに提案する際に、業務改善案も一緒にプレゼンした。 反対多数を覚悟していたが、意外にも賛同してくれる職員さんのほうが多く、 中には、「自分もどうにかおフロの回数を増やしてあげたいと思っていました」と言ってくれる人も。 役職者を中心に会議で話し合いを重ね、業務改善の方法を固めていった。 それから、他部署のかたにも協力を仰ぎ、1ヶ月限定で週3回の入浴をお試しした。 事前の打ち合わせが功を奏し、想像していたよりは負担も大きくならずに1ヶ月間を乗り切ることができた。 お試し期間が終わり、入居者さんに感想を聞いてみると、「1日でも多くおフロ入れるほうがいいわ」という答えかと思いきや、ほとんどの方が「2日に1回はしんどいわ」だった。 100名の入居者さんのうち、「週3回入りたい」と希望された方は3名だけ。 その3名の方だけ、お試し期間が終わっても、そのまま継続した。 それ以降、新しく施設に入居してこられる方には、入浴の回数を週2回か3回かをお聞きするというルールができた。 それでもほとんどの方は週2回を選ばれた。 「おフロは出来るだけ毎日入りたいというのが当たり前」だと思っていたが、高齢者になると体力的にしんどかったり、誰かに手伝ってもらって入らないといけないことの羞恥心などから、回数は週2回がほとんどの方の適切な回数なんだと、この取り組みをしたことでわかった。 そういう観点で定められたかどうかはわからないが、「高齢者施設の入居者さんの入浴の回数は週2回以上」という、常識的には不衛生と思われる国の基準が、実は正しかったということがわかった。 夜間不眠の方の対応は、睡眠薬が当たり前 夜、目覚めると10分とたたずにナースコールを押してくるAさん(男性)にみんなホトホト困っていた。 「おしっこ出た」と言われてオムツを見たら出ていない。 「足が痛い」と言われてさすったりしても納得されない。 ドンピシャな対応が出来ていない感じで、ピンポンピンポンが朝まで続く… おしっこが出たと言って出ていないということから、①膀胱炎などの病気ではないかということで泌尿器科への受診が検討された。 同時に、 ②夜になって足の痛みの訴えがあった場合にシップを貼る ③夜にしっかり寝て頂く為に、日中、できるだけリビングで過ごして頂く ④もともと服用している睡眠薬の量を増やすかどうかの検討 という対応が話し合われ、②③についてはすぐに実施した。 だが、④の睡眠薬については、適切な量に調整するのが難しく、就寝前に服用した薬の作用が起床時にも残っていて、足腰がフラフラで転倒される恐れがあったり、食事の際に意識がはっきりしていないことで喉詰めのリスクが高まったりするので、容易に頼るべきではないという考えから、どうにか避けたいなと思っていた。 さらにAさんに関しては、認知症があって言葉がはっきりしない為、しっかり訴えを読み取れていないと感じていた。 まずはAさんの頻回なナースコールの本当の意味を探り、その理由がわかって対応できれば、睡眠薬も不要になるのではないかと考えた。 ぼくは自分が夜勤の時に、Aさんの居室前に陣取って入口の扉のスキマから、Aさんをよく見てみることにした。 ナースコールを押されるまでの間に、Aさんが身体を動かされたり、独り言を言われたりする中に、訴えたいことのヒントが隠れているのではないか? そう考えていたが、すぐに全く別の角度から問題がわかった。 Aさんの居室前で椅子に座って待機していると、どこからともなく、ボソボソと人の声が聞こえてくるのだ。 「何これ?誰の声?めっちゃ気になる…」 職員がコールで呼ばれて対応している時は、職員自らが発する声や音でボソボソが聞こえていなかったが、静かにしていると気になってしかたがない音量でずっとボソボソ聞こえてくるのだ。 そしてどうやらボソボソの合間にBGMも聞こえてくる… そう、隣りの居室の方が聴いておられる深夜ラジオの放送だったのだ。 Aさんに「音、気になりますか?」と言うとウンウンと首の縦振りが止まらなかった。 やっぱりこれか…ということで、隣りの居室の方にお願いして、イヤホンをして頂くことにした。 それで一発解決。 その日から、Aさんのコールが鳴り出すと、隣りの方にイヤホンをお願いするという流れで、Aさんは寝てくださるようになった…。 偶然の発見だったが、入居者さんが何をどう思い、どう感じて行動をされているのかを知ろうとした結果、問題が解決し、不眠の方への当たり前である睡眠薬の服用自体をなくすことができた。 新しい常識はこれまで非常識と思われていたものの中にある ぼくは子どもの頃から、よく「へそ曲がり」と言われてきた。 人と違うほうを選ぶ、人がやっていることをやりたがらない、流行っているものを敬遠する、というめんどくさい性格である。 ただ、流行っているものでも、「自分もいいと思えるもの」であれば、その流行りに乗っかるし、「人と一緒」が嫌なわけではなく、人と一緒を選択する前に、他にも何かないかを考えるひと手間がかかるだけなのだ。 そしてそれが仕事となると、「何を非常識なこと言ってるねん」と、特に上位層の方々や、変化を嫌うベテランさんから煙たがられる存在になってしまう。 でも、誰もがやってみようとも思わなかった「非常識」をあえて試すことで、実はソッチのほうが良かったという発見につながって「新しい常識」になっていったり、これまでの「常識」がやっぱり正しかったんだという根拠になったりするのを何度となく経験してきた。 そして、それこそが業務改善の提案や、自分自身の成長につながってきたように感じている。 これからも「非常識」と呼ばれるものも含めてフラットに見ることの出来る視点を養いつつ、入居者さんにとってよりよいケアにつなげたり、介護士がより働きやすい職場環境にしていけるように、「柔軟なへそ曲がり」であり続けたいと思います。  

  • 思い通りに身体が動かないAさんのイライラ

    認知症はないが、首から下が全く動かなくなっていく難病を患ってるAさん(女性)のイライラが止まらない。 居室で横になられる時は、ナースコールを左肩の上あたりに置き、ほっぺたで押せるようにセットする。 が、ちょっとでもズレたら、押したくても押せずに大声で職員を呼ぶことになる… 筋萎縮性側索硬化症(ALS) Aさんの難病、『筋萎縮性側索硬化症(ALS)』は、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。 しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経が主に障害を受けた結果、脳から「手足を動かせ」といった命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていくという病気である。 一方で、身体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが一般的とされている。 日本では50歳~74歳という、比較的若い時期に発症する人が多く、実際にAさんも70代前半のかたであった。 思い通りにならないイライラ 居室で横になっていて、ナースコールを押したくても押せなくなってしまった場合は大声で職員を呼ぶことになるが、他の業務をしている中、なかなか声は届かない。 結果的には、2時間ごとの職員の巡視が来るまで待たざるを得ない状況になる。ナースコールに細工を施してズレないように対策を取るが、どうしても上手くいかない場合もあった。 車椅子はリクライニング式のものを購入して使っておられたが、身体がズレてくることから長時間座っていられない。首にも力が入らないので、バランスが崩れるとグランと頭が落ちてしまう。 頭を安定して支えるサポート(U字になっていて後頭部を包むように支えるもの)もついているが、食事前にそのサポートに真っ直ぐに頭をもたれられるようにしないと、水分をストローで飲もうとしてお口で迎えに行こうとされるタイミングでグラン。 そもそも施設の食事について「薄味で口に合わない」と、常に言われていた。 トイレには座れずに終日オムツの中にせざるを得ない。 不快感があるので出た瞬間にキレイにしてほしいが、上にも書いたように、ナースコールを押せずにすぐに職員を呼べない場合は、次の巡視までその不快感を我慢するしかない。 寝たきりのかた用の『機械浴』という特殊なお風呂は「ちょっと怖い」と思いつつ、仕方なく入られる。 生活のほとんどの時間を居室でテレビを観て過ごす… 自分で動けないのに頭はしっかりしているという状態が、いかに過酷なものか想像できるはずもない。 そんな思い通りにならない毎日と、ご自分ではどうにもならない不甲斐なさとで、職員に対して常に愚痴をこぼしたり、きつく当たるなど、イライラをぶつけておられた。 例えば… 大声で叫んでも職員が気付かなかった場合、次に巡視に伺った職員に対しては特にボロカスに罵声を浴びせられた。 食事のお手伝い中も常にブスッとしており、職員や他の入居者さんと会話が弾むなどということはほとんどなかった。 唯一、湯舟につかっておられる時だけ、ホッとした表情を浮かべておられたが、それでも「ぬるい」と文句を言うことは忘れてはいなかった。 職員のみんなはだんだん、Aさんと関わること自体がストレスになってきているようだった。となると、ぼくやフロア主任がなるべくAさんと関わる担当をするということになっていく… 実際にAさんと蜜に関わらせて頂くと、言われていることはほんとに「仰る通り」のことばかりで、ただイライラを理不尽に職員にぶつけておられるわけではなく、「考えたらわかること」「ちょっと気を配ればできること」をしてくれない時に、怒っておられたということが理解できた。 Aさんの為にも、関わる職員の為にも、Aさんが心穏やかに過ごして頂く方法はないかを考える… Aさんのご要望を実現していく 他部署の職員も交えて、Aさんの対応についてカンファレンスを行う。 そして、少しでもイライラを解消する為に、『Aさんが望んでおられることをできるだけさせて頂く』ということになった。 その為に、その時々で何を望んでおられるのかを知る必要があった。 Aさんにご要望をお聞きすると… ・熱めのお風呂に5分浸かりたい ・ウンチが出たらすぐオムツを替えてほしい ・お風呂とオムツはなるべく女性にしてほしい ・おかずの味付けをもう少し濃くしてほしい ・下痢も便秘も嫌なので、ヨーグルトは欠かさず朝食べたい そして、 ・主人の油絵が好き ・韓流ドラマが好き ・主人と行った海外旅行がとてもいい思い出 などなど… といったことを挙げられた。そしてご自身のお身体の状態から、 ・こうしてもらえると嬉しい ・こうされるとしんどい、ツラい といったことも教えて下さった。 挙げて頂いたことを、みんなで協力してできる範囲で実現させていく。 ●お風呂は機械浴に43℃で5分間。 ●ウンチ後はすぐにオムツ交換。これをする為に、ナースコールで呼ばれていなくても、1時間おきにAさんの居室を伺うようにした。ただしこれは、男性が対応せざるを得ない日もあった。 ●フロアの冷蔵庫には調味料を常備し、味付けが薄いと言われた際に醤油などを使えるようにした。 ●ご主人の面会時にはヨーグルトを買ってきて頂き、一緒に居室で過ごす日をなるべく作って頂いた。 ●ビデオデッキ(当時)を持ってきて頂き、『世界遺産』や『韓流ドラマ』を流した。韓流ドラマについては、TSUTAYAでぼくが選んでレンタルしてきた『私の名前はキムサムスン』にドはまりし、他のかたにも見せたいとのことで、Aさん主催と銘打って上映会をしたほどだった。 ※キムサムスンはぼく自身もハマり、あとで全話を一気見したのは余談ですが、観たことないかたはぜひ見てほしい作品です。マジで名作ですから。 こういった取り組みを進めていくうちに、業務中に少し手の空いた職員が話し相手としてAさんの居室を訪れるようになった。ご主人も積極的にご協力くださり、居室にはみるみる油絵が増えていった。 Aさんのイライラは少しずつ解消し、職員のみんなもAさんが優しくなっていかれるのが嬉しいようであった。どんどん良好な関係性が築かれていった。 そんな時、ぼくの施設異動が決まった… 満を持して託せるようになったチーム 打ち明けるのを数日悩み、夜勤明けで行うAさんの朝の身支度の際に伝えた。歯磨きと洗顔のルーティン。 ところどころにマッサージ的な要素を加えるぼくのやり方をすごく喜んで下さっており、「もうこれもしてもらわれへんようになるんやね…」とすごく落ち込まれた。 「これ」の詳細は… まだ他のみなさんが目覚めておられない時間帯にAさんの居室に行き、1番に起きて頂く。朝の身支度の時間を確保する為である。 パジャマから洋服に着替えて頂く。それからフロアのもう1人の夜勤者に協力してもらって車椅子に移って頂き、洗面台の前へ。 Aさんの習慣として起きてすぐの歯磨きをさせて頂いた後、お湯で温めたフェイスタオルで顔全体を覆い、温めながら拭かせて頂く。 その時に、タオル越しにお顔をマッサージするのだ(散髪屋さんのマネ)。かつ、両耳も拭きつつマッサージ。 それから、Aさん愛用の化粧水をピチャピチャつけさせて頂いて、最後に髪の毛をとく。 リクライニングをいい感じに倒しつつ、テレビが見れる位置で朝食が用意できるまで居室で過ごして頂く。 というルーティン。 異動までの間にフロアの職員に「これ」のやり方を伝え、みんなができるようになった。 「部長さん、たまには顔出してね」と泣きながら言って下さったぼくの最終日。Aさんのイライラが一切なくなっていたことに気付いた。 残ったメンバーに託して、安心して離れられると確信した。 高齢者施設には、認知症はないが身体が不自由な為に入居しているかたもおられる。 頭がしっかりされているぶん、ご自分の思い通りにならないことへの歯がゆさ、苛立ち、不安や不満は想像を絶するものがある。 そういったかたへの身体的・精神的ケアも決して疎かにしてはならないと実感した、Aさんとのお話です。  

  • 認知症の母を施設に入居させるまで。ひとり娘の奮闘記①

    私は母が43歳の時に産まれた。 今の母は80歳後半。 80歳を超えたあたりから認知症の症状が出始め、現在の介護度は要介護2。 認知症と診断され、介護度を判定してから1年、グループホームへ入居した。 これはひとり娘の私が認知症の母をグループホームへ入居させるまでのお話。 親を施設に入れることに悩んでいる方の参考になるとうれしいです。 母と私の関係 最初に母と私の関係をお伝えしておきたい。 私は一応一人っ子だ。 私は子供時代、普通の家庭で育っていない。 詳しく語るととても長くなるので割愛するが、簡単に言うと昼ドラの大人の愛憎ドロドロの真ん中で泣いている子供が私だと思ってもらえればいい。 そのため、私は物心ついてからずっと「親」が嫌いだった。 小さなころからずっと親から離れてひとりで暮らすことに憧れた。 母はそんな環境だったからか、いつもイライラしていて、よくつまらないことで私を怒鳴った。 大人になったから当時の母の気持ちは理解できないこともないが、それでも私はいまだに母を許すことができない。 父と母は長らく家庭内別居状態で(父はほとんど家にいなかったが)、私が高校生の時に正式に離婚したらしい。 私は高校を卒業してすぐに就職し、成人してまもなくひとり暮らしをした。 その後母はなぜか私の出生の秘密を手紙にしたためてきて(要するに私は普通の子供のように、周りから望まれて祝福されて産まれたわけではない。複雑すぎる環境で産まれたのだ)、それが原因でパニック障害を発病し、それをきっかけに母と数年没交渉になったこともあった。 ちなみに私の父にも母にも親戚はいない。 親戚にあたる人たちはいるが、彼らは私たち一家と関わりたくないのだ。 それもこれも父と母の自業自得ではあるのだが。 その後、パニック障害を克服した私の中で「ひとりぼっちの母の面倒を見てあげるべきではないか、一応高校までは面倒を見てもらったのだし」と思い直し、母と再び連絡を取り合うようになる。 私はその数年後結婚をし、地元を離れた。 高齢の母を地元に残しておくと、死んだ後の処理が大変になるかもしれないと思った私は、しばらくして私の住んでいる街に母を呼び寄せた。 それから数年して、母は認知症を発症する。 母が同じことを繰り返し話すようになる 母が80歳をすぎたあたりで、私は母の違和感に気付く。 同じことを繰り返し話すようになったのだ。 私の母は保険の営業を60歳すぎまでやっていたこともあって、しっかりしている印象が強い。 だからこそ、こんな風に同じことを繰り返し話すことに、とても違和感を覚えた。 母が私の住んでいる街に引っ越してきた当初、私は母の住む地域にある地域包括支援センターに母のことを伝えておいた。 もちろん、母にも何かあったら連絡するか、地域包括支援センターに言ってみるように伝えてあった。 実際、母は1か月に何回か地域包括支援センターに行き、読書をしたりしていたようだ。 その地域包括支援センターのケアマネージャーさんと私も連絡をとっていたこともあり、母の現状を相談すると、近くの総合病院で認知症の検査をしてもらえることを教えてくれた。 私は母に「念のため」を強調し、病院につれていって検査をしてもらった。 MRIは特に異常が見られず、「長谷川式」と言われる検査でも「年相応」との診断を受ける。 「そうか。母も80歳を過ぎたし、物忘れもひどくなるか」 検査の結果を受け、私は自分をそう納得させた。 そしてそのあと、施設で利用者さんたちにやっていただいているような、簡単な計算ドリルや塗り絵などを買ってあげたのだが、母は面倒だから、とほとんどやっていなかったらしい。 しかし、この1年後に大きな事件が起きる。 母の家に泥棒が? ある日、私の携帯に警察から連絡が入った。 「お母さんが泥棒が入ったとおっしゃっていたので現地捜査をしましたが、他人が入った後や物が盗られたという形跡は見られません」 「もう何度も同じような通報が入り、こちらとしても困っています。娘さんの方で対処してもらえませんか?」 私はそんな警察の話を、ただひたすら謝りながら聞くしかなかった。 そしてその後、母の賃貸アパートの管理会社からも連絡が来る。 「お母さんが私どもが勝手に家の中に入って物を盗ったというんです」 「もちろんそんなことはしていませんし、何度もそんな風に疑われるのであれば、退去してもらうほかありません」 どうやら母が「泥棒が入った」と騒ぎ始めたのは今回が初めてではなく、何度かやらかしていたらしい。 そして一度は管理会社に鍵を変えてもらっていたのだそうだ。 そのあと何度も泥棒説を繰り返し、挙句の果ては管理会社を泥棒呼ばわりしたらしい。 私は電話越しで顔面蒼白になりながら、とにかく管理会社に謝った。 80歳近い老人のひとり暮らしのアパート探しは簡単ではなかった。 そんななか、「娘が近くで暮らしているなら」とOKを出してくれた管理会社に、母はひどい物言いをしていた。 合計で2時間ほどかかって謝り続けた警察と管理会社との電話を終え、半泣き状態の私がすぐに電話したのは、母の地域の地域包括支援センターのケアマネージャーさんだった。 すると、どうやらそのケアマネージャーさんは、母の家の盗難話を何度か聞いていたらしく、 「お母さんには一度病院に行くように説得していたんです。明後日病院で検査を受けるそうですよ」 と教えてくれた。 母はどうやら娘の私に黙って病院の検査を入れていたらしい。 しかも、前回とは違う病院で検査を受けるそうだ。 私はケアマネージャーさんにお礼を告げ、私に病院のことを伝えていないことにしてほしい、と口止めをした。 その後母に連絡をし、実は認知症の検査の予約を入れていなかった母を「念のため」と説得し、再度認知症の検査を受けるよう、予約を入れたのだった。 母に認知症の診断がおりる MRI検査を受けた後、前回同様「長谷川式」の検査を受ける。 今回の母はこの質問のほとんどをきちんと答えられなかった。 認知症は1年で大きく進むのだと、実感し、痛感した。 出された検査結果は「認知症」の「初期段階」であること。 その後薬の飲み方などの指導を受け、私は母を引き連れて母の地域にある地域包括支援センターに向かった。 ケアマネージャーさんと相談するためである。 介護士の私はもちろん介護を受けるための流れは知っていた。 まず介護認定を受け、そこからケアマネージャーとともに介護プランを決める。 そのためにも、まずはいつも相談させていただいているケアマネージャーさんと話をするべきだ、と思ったのだ。 そしてもう1つ重要なことがある。 私は母と同居する気が全くなかったことだ。 ただでさえ母と一緒にいるととても疲れる。 体力が半分以上持っていかれる感じがする。 一緒にいたくなくて成人してすぐにひとり暮らしをした、あの頃の気持ちは今でも私の中にある。 認知症になったからと言って、母と同居をし、面倒を見るなんてはっきり言ってごめんだ。 だから、母にはこれからもひとりで暮らしてもらわねばならない。 認知症の初期症状ならば、きちんと処方された薬を飲み、適切なケアを受ければ、なんとかひとり暮らしを継続できるだろう。 というか、してもらわねばならない。 そのためにも、早く介護認定を受ける必要がある。 ケアマネージャーさんは病院の結果を聞くとすぐに介護認定を受けられる手続きをしてくれた。 そのあと、デイサービスの見学もさせてもらい、その日は母を送って私も家に帰ったのだった。 介護認定調査を受ける 数日後、母の家に役所から介護認定調査がやってきた。 もちろん私も同席である。 いくつかの質問を母にして家を出るとき、私は家を出て母の状態を伝えた。 このように、家族から見た本人の状態を認定員に伝えることが重要であることを私は知っていた。 初期の認知症の場合、見た目と少し話しただけだと、しっかりしているような感じがしてしまうからだ。 そして数日後、母の介護度が出た。 「要介護2」 それは想像以上に高い介護度だった。 私もケアマネージャーさんも、要支援程度であると思っていたからだ。 しかし、要支援と要介護では受けられる介護サービスが大きく異なる。 私とケアマネージャーさんはこれ幸いと、デイサービスの予定を組んでいった。 しかし、ここでもまた、母は問題を起こすのだった。   ②に続く

  • 徘徊を繰り返すAさん

    真冬の夜の23時頃、「パジャマに素足にスリッパ」という格好のおばあさんが、歩道でフラフラ歩いていた。 ぼくはコンビニに寄っておうちに帰るところだった。 一目で徘徊されていると気付いたぼくは、「どうされました?」と話しかけたが、キョトンとした表情で「別に何でもありまへん」との返答だった… 認知症のおばあさんを保護 おうちの住所、お名前、ここで何をされているかなど、ゆっくりお聞きするが、少し考え、「わかりまへん」「さぁ何でしたかいな?」といった調子が続く。 少し目を離してしまうと、フラフラと車道に出て行ってしまう危うさを感じたので、おばあさんと車道の間に立ち、笑顔で安心してもらうようにしつつ、見守りながら110番に連絡をした。 事情を説明し、はっきりとした住所は言えないものの、幸い、おうちの近くだったので場所が特定できる伝え方が出来た為、10分足らずでパトカーがやってきてくれた。 その間にもぼくが原因でおばあさんが落ち着かれなくなってしまわないように、安心して頂くよう努めた。 パジャマで素足だったので、ぼくのデカすぎるダウンジャケットを着て頂いたりもした。 穏やかに笑って「ありがとうございます」と言って下さったので、ホッとしたのを覚えている。 2人のおまわりさんに、おばあさんを保護した状況を説明すると、「ありがとうございます。あとは我々で対応しますので結構ですよ。」と言って下さったので、お任せしておうちに帰った。 念の為と、名前と連絡先も聞かれてお答えしたが、特にその後は何もなく、ぼくもこのこと自体を忘れていた… 施設にきた入所申し込み 当時のぼくは、介護老人保健施設で、『介護部の責任者』と『生活相談員』という役割を兼務していた。 介護老人保健施設、略して『老健』とは、自宅で生活ができるように高齢者がリハビリをする施設である。 何らかの理由で病院に入院されていたかたが、治療を終え、退院できる状態にまでなられたものの、自宅に帰って生活するのはまだちょっと困難な状態という場合、リハビリ目的で申し込みをされるというのが、一般的な施設の利用方法である。 そしてその申し込みは、そのかたが入院中に、ご家族が病院の『相談員さん』に”次の行き先”をご相談されて紹介してもらうというのが一般的である。 生活相談員とは、その施設の窓口的な役割を担う職種であり、上に挙げたような形で施設への入所申し込みをされたかたに対応したり、反対に、病院側に出向き、退院を控えておられるかたで、自宅に帰られるまでにリハビリが必要なかたがおられたら紹介して頂くといった営業的なこともする。 申し込みについてお問い合わせ頂いたご家族さんに施設を見学して頂いたり、必要書類の説明をしてご提出頂いたり、その書類を元にご本人とお会いしてより詳細な情報を持ち帰り、実際に施設で受け入れさせて頂くことが可能なかたであるかを、関係各部署の責任者が集まって決定する『判定会議』を実施したり、施設に入所されたかたのリハビリ状況を見て、いつご自宅に戻られるかをご家族さんと検討したり、リハビリが上手く進まずに自宅に戻れそうにないかたに、”次の行き先”をご提案させて頂いたりもする。 とまあ、前置きが長くなったが、ぼくが『老健の生活相談員』をしていた時、いつものように入所の申し込みがあった。 情報では、 認知症の女性。1ヶ月ほど前、夜に1人で家を出て、道路で転倒し頭部を打撲。意識不明で倒れているところを発見されて救急搬送。 そのまま入院となったが、入院中に認知症が進行。お身体の状態は退院可能だが、ご家族が自宅での介護に不安を感じており、一旦、入所できる施設を探しておられる。 というかたであった。 ご家族さんからお話を伺い、入所申し込みに必要な書類もご提出頂いたので、実際にその女性・Aさんにお会いする為、病院に行くことになった。 ぼくだけが覚えている再会 Aさんとの面会には、入所申し込みの際に施設にこられた長男さんの奥様と、Aさんのご主人さんが同席された。 最初に病院の相談員さんと看護師さんから、病院でのAさんのご様子をお聞きし、それからAさんご本人とご家族さんからいろいろなことをお聞かせ頂く。 Aさんは、普通にご自分でスタスタと歩いてなんでもできるといったご様子で、動作的に看護師さんが何かをお手伝いされるということはないとのことだった。 だが、なぜ自分がここにいるのか、今が何月何日なのか、どこにトイレがあるのか、どこがご自分の病室なのか、といったことが全く理解されていないので、何度も同じことを看護師さんにお聞きになられているとのことだった。 そして、夜に何度も起きて病室から出てこられるので、その都度、夜勤の看護師さんが病室まで案内して横になって頂いているとのことだった。 Aさんご本人にお話を伺うと、ご主人さんのことは当然わかっておられるし、長男さんの奥様のこともわかっておられた。 長男さんの奥様から、「おばあちゃん、ちょっと前に1人で夜中に家を出てこけて頭打ったやろ?だから入院してるんやろ?」って説明されると、「そうやったかいなぁ。全然覚えてへんわ」と笑っておられた。穏やかなかただった… 話をしている最中に、やっとぼくは思い出した。ピンと来るのが我ながら遅いと思った。 この面会の約1年前に、ぼくが夜中に偶然お見掛けして、警察に保護してもらったおばあさんが、このAさんだったのだ。 長男さんの奥様にお聞きしてみると、夜間に家を出ていき、警察に保護されたことが2回あったとのこと。 やっぱり! 確信を得たぼくは、そのうちの1回に偶然にもぼくが関わっていたということを打ち明けた。 お話を伺いながら、Aさんがなんとなく見覚えのあるお顔であったことと、申し込み書類の住所から「ひょっとして」と思ってお聞きしてみたのだ。 3回目の徘徊で転倒して、今回の入院になったそうで、今の状態で自宅に戻ってきても同じことを繰り返すリスクが高いのではないかというのが、施設に入所を申し込まれた理由であった。 Aさんは、ご主人さんと2人暮らし。 お近くの住む長男さんご夫妻が毎日のようにご高齢のお2人のご様子を見に行っておられるが、ご主人さんが気付かれないうちにAさんが徘徊されてしまったとのことで、自宅に戻ってこられるまでの間に、その対策を立てないといけないという課題があった。 施設で受け入れるも… 施設でも「夜の対応をどうするか?」という話になり、各フロアの介護主任からも、他のかたの居室に入ってトラブルになるのでは?転倒のリスクが高いのでは? という、受け入れに難色を示す意見が出たが、1人の主任さんが、「なんとか対応しますよ」と言ってくれて、入所が決まった。 ぼくはAさんを保護したことから親近感が沸き、なんとか入所して頂きたいと思っていたので、この申し出は嬉しかった。(こんなこと思うのは失格だと思うが) ご家族さんには、入所にあたっての転倒のリスクや他者とのトラブルを完全に回避できるものではないことなどをご説明させて頂き、ご了承頂いた上で入所して頂いた。 Aさんは病院から出て、見慣れない施設にやって来たことで混乱されていたが、ご主人と長男さんの奥様も一緒に来て下さったので、穏やかな状態はキープされていた。 だが、お2人が帰られてからが大変だった。 フロア内をずっとウロウロされ、「ここはどこですか?」「おうちに帰ります」と何度も居室から出てこられたそうで、その都度、ベッドまでご案内し、横にはなって下さるものの、30分も経たないうちにまた出てこられるの繰り返し。 特に何かをされるわけではないのだが、「万が一転倒されたらと思うと、ずっと付きっ切りにならざるを得ませんでした」と、疲れ切った表情の夜勤明けの職員さんから聞いた。 「お疲れさま。ほんまにありがとう」としか言えなかった。 落ち着かれて、夜間、寝て下さるようになるのか。ご家族さん側での受け入れ体制が整い、ご自宅に帰れる日がくるのか。 不安が膨らんでいったが、全く思いもよらない別の形で、Aさんはご自宅に戻ることになる… 突然のご主人さんの行動 ご主人さんが、翌日も施設に面会に来られた。そして、Aさんの手を握り、施設をお2人で出て行こうとされたのだ。 Aさんがおられるフロアのエレベーターの扉が開いた瞬間、ご主人さんとAさんがお2人で乗って1階まで降りてこられ、事務所の前を歩いていかれるのが見えた。 アレっ?と思った事務員さんがご主人さんにお声掛けすると、「今から連れて帰りますねん」と言って、施設を出ようとされたので「いや、ちょっと待って下さい!」とお止めしたが、聞く耳もたれず、激怒されたのだ。 ぼくも慌ててご主人さんをお止めしてロビーのソファに座って頂き、説明をするも、どうやら病院から退院して、自宅に帰ってくると思っておられたようであった。 長男さんの奥様に連絡を取り、電話でご主人さんとお話をして頂くと、しぶしぶ納得されたようで、お2人でAさんの居室に戻っていかれた。 長男さんの奥様とお話すると、前日の時点でご主人さんが「帰ってくるんと違うんか?」と何度も言われていたとのこと。ただ、まさかそんな行動に出るとは思ってもみなかったそう。そりゃそうである。 ご主人さんには夕方までAさんと一緒に過ごして頂き、長男さんの奥様が仕事帰りにお迎えに来られて帰っていかれた。 が、 この騒動が頻回に起こるので、長男さんご夫妻が、ついに何の対策も立てることが出来ないままにAさんの帰宅の決断を下したのだ。 退所の日 Aさんとご主人さんの嬉しそうなお顔とは対照的な、長男さんご夫妻の絶望的なお顔、「ほんとにご迷惑をおかけしました」というお言葉が忘れられない。 ぼくたち施設側の人間も、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 駐車場に止めてある車に、Aさんのお荷物を運ばせて頂いた際、長男さんがご主人に向かって「おかんになんかあったらオヤジが全部責任とれよ!」と怒鳴っておられるのが聞こえてしまった。 胸がしめつけられるような思いだった。 長男さんの奥様に、「ご主人さんも認知症がおありだと思いますので、申請して、介護サービスをお2人で受けられるようにされたほうがいいと思います。またご相談ください。」とお伝えした。 奥様は「やっぱりそうですよね」と苦笑いをされた。

  • 介護士という仕事の怖さを実感した話

    めちゃくちゃお元気だった101歳のAさん(男性)は、ぼくの不注意で転倒し、大けがをされた… ご家族さんが不在の時だけ施設に泊まりに来られる常連さん。認知症もなく、ピンと背筋を伸ばして歩く姿がカッコ良かった。 お1人でもおうちで大丈夫だろうと思われるくらいお元気だが、「念のため」ということと、ぼくを含む気ごころ知れた職員としゃべったり、ちょっとしたレクリエーションをしたりすることを楽しみに、定期的に施設に来て下さっていた。 そんなAさんが、ぼくの不注意で転倒してしまったのだ… 取り返しのつかない判断ミス ぼくが夜勤明けの早朝5:30頃、「おはようさん」と居室から出てこられたAさんは、両手にカラの湯飲みとマグカップを持って、キッチンにいるぼくに近づいてこられた。 湯飲みにお茶、マグカップに薬を飲むためのお白湯(夜のうちにつくって冷めているぶん)を希望されたので、その通りに注ぐ。 そしてそのまま、それらを両手で持って居室に戻ろうとされたので、「大丈夫ですか?」とお聞きする。すると、「いけるよ」とのお返事だった。 その時ぼくは、「Aさんなら大丈夫だろう」と軽く考えてしまった。その判断が取り返しのつかない事態を招く。 居室に戻って行かれるAさんの背中を何となく見ていたら、突然、Aさんがバランスを崩して前のめりに転倒された。 両手がふさがっていた為に受け身を取ることが出来ず、「ゴンッ!!」と床に、顔面から落ち、同時に右ヒザを強打されたのだ。 慌てて駆け寄り、「大丈夫ですか?!」とお聞きしながら身体を起こすと、「すまんすまん」との返事。アゴから血がしたたり落ち、右ヒザは少し動かすだけで顔をゆがめるほどの痛みがあった。 救急搬送 特別養護老人ホームにおいて、看護師さんが夜勤に入っている施設は少なく、この時の施設でも夜間は看護師さんが不在だった。 介護士だけで対応できない「何か」が起った時は、看護師さんに電話して状況を伝え、指示を仰ぐというルール。 そのルールに従って、他の夜勤者に看護師さんへの連絡を依頼する。ぼくはAさんのアゴの応急処置をしてから、身体をかついで車椅子に乗って頂き、居室のベッドまでお連れした。 右ヒザを動かさないように気をつけたが、響くだけでも痛いご様子だった。 連絡を受けた看護師さんは、自宅が施設からおうちが近いこともあって、かなり早く出勤してきてくれた。Aさんの状態を確認してもらうと、すぐに救急車で病院に向かうことになった。 看護師さんが119番に連絡し、救急車を手配。ほどなく施設に到着し、看護師さんの付き添いで、受け入れ先の病院まで搬送されることになった。 ぼくは「大したことありませんように」と強く願った。 看護師さんが救急車の手配をし、受け入れ先の病院が決まった段階で、ぼくからご家族さんに連絡すると、烈火のごとく激怒され、 「なんでそんなことになるんですか?!」 「ほんとにちゃんと見てくれてたんですか?!」 と、たたみかけるように質問攻めにあった。 ただただ謝るより他なかった。 その後、病院に同行した看護師さんから、Aさんは下アゴを5針縫い、右ヒザの骨折で入院することになったと連絡が入った。病院に到着したご家族さんは、看護師さんにも激怒され、罵声を浴びせられたらしい。 気のゆるみの代償 ぼくが、「Aさんなら大丈夫だろう」ではなく、「Aさんでも危険かもしれない」と判断し、飲み物を居室まで運んでいればこんなことにはならなかった… 気のゆるみ、判断の甘さで取り返しのつかないことになってしまった。ぼくは完全に自信を失った… Aさんはその後、入院生活の中で寝たきりになり、認知症を発症。退院して再び施設に泊まりに来られた際、その見違える姿にぼくは動揺を隠すことができなかった。 あの、背筋をピンと伸ばしてカッコよく歩くAさんはどこにもいなかった。 後日、Aさんを担当されていたケアマネさんから伺ったお話だと、本当はご家族さんは、Aさんを他の施設にお任せしたかったとのこと。 だが、申し込み手続きや面談など、サービス利用に至るまでに必要となる諸々をやっている時間がなく、複雑な思いながら、引き続き、ぼくのいる施設を使わざるを得なかったとのことだった。 何度かの施設ご利用後、ご自宅で肺炎を患い、帰らぬ人となってしまわれた。転倒から、たった1年後のことだった。 施設長がお通夜に行かせて頂きたいと連絡し、施設長と施設のケアマネさんが参列したが、その連絡の際、ご家族さんからぼくは名指しで「来させないでほしい」と、拒否されたとのことだった。 ぼくはどうしても行かせて頂きたかったが、参列させて頂くことで気持ちが少し楽になるのは自分だけだと思い直し、「やはり行くべきではない」と自分に言い聞かせた。 ぼくは当時、すでに介護部長という役職で、介護士の指導にあたる立場であったが、自分の不注意でこんな事故を起こしてしまった人間が、何をエラそうに他の職員の指導をできることがあるのかと考えた。 それどころか、このまま介護の仕事を続けていていいものか、それ自体を真剣に悩んでいた。 悩みながら、結論を出すことなく惰性で毎日の勤務をこなしていた。 介護士の後輩たちや、他の部署の職員さんも、 「たっつんさんじゃなくても、自分もたぶん同じ対応してたと思います」 「そこまで自分を責めなくてもいいんじゃないですか?」 と、声をかけてくれたが、誰の慰めの言葉も耳に入らなかった。 ご家族さんからのお手紙 後日、ご家族さんからぼく宛てに手紙が届く。 『たっつんさん。父は入院中、 「あの人を責めたらいかん。ワシが勝手にこけただけや」 と、何度も言ってました。 私たちの気持ちの整理がつかず、拒否してしまいましたが、たっつんさんに辛い思いをさせてしまい、申し訳ありません』 といったことが書かれてあった。 ぼくは読みながら、生まれて初めて崩れるように泣いた… ぼくは正直、Aさんが転倒されたあの日からずっと、介護士を続けるかどうか迷いながら仕事をしていた。 許されるはずもない、取り返しのつかないことをしてしまったという罪悪感で常に自分を責めていた。 そして、命をお預かりする、介護士という仕事の怖さを、ほんとに心の底から感じていた。 このお手紙は、そんな思いを浄化してくれた。 いろんな思いの入り混じった涙を、しばらく止めることができなかった。 後悔を胸に刻んだまま進んでいく ぼくはAさんから、 「介護士という仕事の怖さ」と「人を許すことの大切さ」を教わりました。 ぼくの場合は、たまたまAさんとそのご家族さんが、とてもいいかただったので救われましたが、気をゆるめてはいけない場面で気をゆるめてしまったり、判断ミスをしてしまうことで取り返しのつかないことになってしまうことがある「介護士という仕事の怖さ」を理解してもらいたい。 そして、ぼくと同じ後悔をしないようにしてほしいという思いで、後輩にはこの話を必ずしています。 人の悪口を言ったり、自分が楽をしたいという思いから業務を適当にこなすような職員さんには注意をしますが、それでもなかなか改善せずに相変わらず同じようなことを繰り返していると、さすがにイラっとします。 ですがそういう時は、Aさんから教わった「人を許すことの大切さ」を思い出し、自分の指導のしかたが間違ってたのかな?次はどういうアプローチすればいいかな?と考えられるようになりました。 ぼくはまだ完全に自分を許すことができていませんが、今でも鮮明に浮かぶAさんの笑顔とあの日の後悔を胸に刻んだまま、介護士を続けていこうと思います。

  • 転倒事故は完全には防止できない

    0時過ぎからナースコール連打のAさん(女性)が全く寝てくれない。連打の合間をぬって、他のかたの巡視に行くと、認知症のおばあさんの両足がベッドからはみ出ていた。 「トイレに行きたい」とのこと。車椅子でトイレへお連れし、便座に座って頂いたところでAさんからのコール。「はぁ~」と深いため息をついてしまった… 介護老人保健施設とは… 15年以上前の、ぼくがまだ『介護老人保健施設』のフロアの主任として現場で働いていた頃のお話。 その施設は5階建て。そのうち2~5階が入居者さんのおられるフロアで、ひとつのフロアに20名のかたが生活をされていた。 『介護老人保健施設』略して『老健』は、中間施設という位置づけで、何らかの病気やケガなどで病院に入院された高齢者の方が、治療を終えて退院可能な状態にはなられたものの、自宅に戻るのはまだ難しいという段階で入所される施設である。 つまり、自宅に帰る為のリハビリをする役割の施設ということ。もっと言うと、リハビリをすれば自宅に帰れる可能性のある方が入所されるのが基本の施設ということになる。 だが現実は… 病院から退院できる状態にはなったものの… 家族の判断として、 ➡自宅に帰ってこられても誰も介護ができる状況ではない ➡亡くなるまで生活ができる『特別養護老人ホーム』に入居申し込み ➡その入居が決まらないうちに、病院の退院期日がせまってくる ➡「とりあえず生活する場所」として入所する ➡入所しながら、特養の入居が決まるのを待つ という側面がある。 つまり、老健に入所されている方ご本人の思いとは別で、2種類の異なる「ご家族の目的」があるということになる。 そして施設としては、リハビリをしてご自宅に帰って頂くことが収益につながるというシステムがある為、本来の目的で入所してくださるかたを増やしたいのである。 苦肉の策 夜間、「トイレに行きたい」という認知症のおばあさんをトイレにお連れし、座って頂いたところで、Aさんからのナースコール。 さっきからコールボタンを何回押してこられたのかわからない。居室に伺っても、特に何の用事もなかったりもする。つまり、Aさんも認知症が進行している方なのだ。 どうすべきか迷った。本来であれば、目の前のおばあさんのトイレが終わってからAさんの居室に向かうべきだが、Aさんからコールがあったらすぐに駆けつけないと、ご自分で立ち上がり、転倒されるリスクが非常に高いのだ。 しかも、以前に転倒して頭を打たれた際、娘さんが施設に怒鳴りこんできたこともあった。だから迷った。 フロアの入居者さん20名に対し、夜勤は1名の体制。ヘルプを呼ぶにしても、他のフロアの夜勤者に来てもらわないといけない為、その夜勤者が担当するフロアがその間、誰もいない状態になるというリスクを背負うことになる。 夜勤には看護師も入っているのが老健のスタイルなので、本来であれば看護師を呼べばヘルプをお願いすることが可能なのだが、この日は、また間の悪いことに、体調の悪い入居者さんの受診に付き添いで行っており、ちょうど不在だった。 つまり、ぼくだけで何とか対応しないといけない状況だったのだ。 仕方がない… トイレに座っている方に「すぐ戻りますからそのまま座ってて下さいね」と言い残し、Aさんの居室までダッシュした… どうすれば良かったのか? 居室の扉を開けると、やはりAさんはベッドから立ち上がろうとしていた。慌てて身体を支え、転倒を防止した。その瞬間、強烈なウンチのニオイがした。 Aさんは下半身がウンチまみれだった。パジャマのズボンと紙パンツ、パンツの中に入れている尿取りパッド、肌着、かけ布団、シーツなど、至るところにウンチがついていた。 トイレに座って頂き、身体をキレイに拭かせて頂く。パンツも肌着もパジャマも変え、布団とシーツも新しいものを(あとで丁寧に整えるつもりで)簡易的に敷く。 それからAさんに、ベッドに横になって頂いた。 かなり時間がかかってしまった… 急いでトイレに座りっぱなしの方のところに戻ると、車椅子にもたれるような姿勢で尻もちをついていた。 便座の前に置いた車椅子に移ろうとしてバランスを崩した感じ。手すりで打ったのか、額が赤く膨れあがっていた… 施設から看護師に電話すると、「頭を打ってるんなら、後から何か体調の変化が起こるかも知れない」ということで、すぐに救急車を呼ぶよう指示を受けた。 指示通りに救急車を呼び、近くの病院に搬送してもらうことになった。ぼくが同行した。幸い、大事には至らず、短時間で施設に戻ってくることができた。 翌朝、この転倒事故の報告を行うと、事務長から「お前、なんで転倒させたんや?」と言われ、はらわたが煮えくり返るほどムカついた。 転倒された方のご家族は、「リハビリ目的」の方だった。 つまり、この事故で骨折などして入院したり、安静にしないといけなくなった場合、リハビリが出来なくなり、自宅に帰れない状態になってしまうかもわからなかった、ということでのご立腹だった。 そして、Aさんの娘さんは「特養待ち」を目的とされている方だった。 そんなことを考えて、転倒するかも知れないお2人のうちのお1人を優先的に対応するなんてこと、出来るわけがないし、やろうとも思わない。 事務長のまさかの発言に、ぼくは本気で退職を考えた。 こんな人の元で仕事してること自体がバカらしい。そう思った… 自分の判断は正しかったのか? 特に人手が少ない夜間帯で、複数の方からのナースコールに同時に対応しなければならず、優先順位をつけて動くものの、転倒事故を防止できなかったというような経験をしたことのある介護士さんは、めちゃくちゃ多いと思う。 優先順位をどのようにつけるかというと、やはり、「認知症の影響などで、事故が発生するリスクが1番高い方から」というのが一般的だと思うが、ぼくはこの時の判断をする際、「以前、施設にクレームを挙げてきた娘さん」のことが頭をよぎってしまった。 結果、目の前でトイレに座っている方に「ちょっと待ってて頂く」という判断をしてしまった。そう考えた時、事務長に対して腹を立てた自分に、「お前も一緒じゃないのか?」と幻滅してしまった。 何が正解だったのか、わからなくなった… それでも理解してほしい。 頭を打撲したおばあさんにはほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいで、間違った対応をしてしまった、という後悔がしばらく尾を引いたし、今でもあの場面は鮮明に思い出せてしまうほど、ぼくの心に刻まれている。 ではどうするのが正しかったのか? 老健に入所している目的や、娘さんがクレームを挙げてこられたことがあるという、余計な情報を知らなかったとして、ぼくはどのような判断をし、どのように行動しただろうか? 同じような場面でお2人ともが安全だったとして、それは「たまたま運が良かった」だけではないだろうか? そんな状況でも何とか転倒しないようにと、介護士は日々、神経をとがらせながら施設内を動きまくり、入居者さんの安全を守っている。 ご家族の方のご理解や上司の理解がなく、事故が起こってしまったことや、それが原因でケガをしたり入院せざるを得ない状況になったことなどを、全て介護士の責任とされると、ほんとにやり切れない気持ちになる。 仕事をサボったり、本来すべきことをしていなかったという「介護士の怠慢」が引き起こした事故なら責められても仕方ないと思うが、必死で安全を守ろうとしても、起こってしまう事故があるということはほんとに理解して頂きたいなと思う。 『入居者さん20名に対して夜勤者1名』の基準自体を、そろそろ現実に合ったものに変更する時期なんじゃないかと、本気で思う。

  • やんちゃな愛されキャラ

    認知症がひどくて、でもめっちゃ元気なAさん(女性)は、入居してからずっと「やんちゃ」を繰り返してた。 和室の畳をひっぺ返す。ウンチでカーテンをドロドロにする。造花を食べる。他の入居者さんのベッドに入ってケンカになる。全裸でリビングに出てくる。 「あぁもう!」といつも職員は振り回されていたが… 信じられない写真 ぼくがその施設に「介護部長」という管理職として就任した時、ある職員さんに信じられないような写真があるから見てほしいと言われて、見せられた写真には、小柄だがちょっとがっちりした体型のおばあさんが笑顔で立っている姿と、おばあさんの前に畳がひっくり返っているのが写っていた。 「これ、このAさんがご自分で(畳を)めくってひっくり返したんですよ」 と、笑いながらその職員さんは教えてくれた。 ぼくは、にわかに信じられなかった。素手で畳と畳の間に指を突っ込んで持ち上げてめくり、ひっくり返すというのは、ぼくのような身体の大きい男性でも結構、大変な作業だ。 それをここに写っているおばあさんがされたなんて。 「しかも、娘さんがこのAさんの面会に来られた時に、居室に入ったらこの状態だったってことで、笑いながら撮影した写真なんですよ」 さらに驚いた。 娘さん、ちょっとふざけすぎてやしないか。 この写真1枚で、一気にAさん親子に興味津々になったぼくは、早く娘さんが面会に来て下さらないかなと思っちゃっていた。 ただ、まだ施設の入居者さんのお一人お一人のお顔と名前も一致していない段階だったので、まずはAさんのことを詳しく知ることから始めようと思った。 常にやんちゃが炸裂するAさん Aさんは80代後半。身体は健康そのもので、ご自分でスタスタとハイスピードで歩かれる。立ったり座ったり、何なら床に寝そべったりも自由自在。 ただ、重度の認知症だった。 今がいつなのか、ここがどこなのか、目の前にいる人が誰なのか、何をすべきなのか、どうすればいいのか…あらゆることを認識できないがために、ご自分の置かれている状況が理解できず、正しい判断と正しい行動ができなくなっておられたのだ。 その結果、和室の畳をひっぺ返したり、手についたウンチをカーテンで拭いてドロドロにしたり、飾ってある造花を食べたり、他の入居者さんのベッドに入ってめちゃくちゃ怒鳴られてケンカになったり、全裸でいきなりリビングに出てこられたりと、まぁ「やんちゃ」の限りを尽くしていた。 はっきり言って、手についたウンチや、カーテンのウンチを洗うのなんてかなりめんどくさいし、手の届くところに造花などいろんなものを飾れなくなるし、他の方の居室に入ろうとされたらAさんを止めないといけないけど、歩くのが早すぎて、ちょっと目を離した瞬間におられなくなっていることなんてザラにあるし、全裸で出てこられたら、何をしてても最優先でAさんを居室にお連れして服を着て頂かないといけないし… つまり、誰よりも手がかかり、職員の手間を増やしてくれる方がAさんなのだ。 そして、そんなAさんなのに、なぜか人気があるのだ。 やんちゃが見つかって「あぁもう!」って言われてる時のAさんは、”してやったり”みたいにして笑ってる。 そして「ほら!またぁ!」って言いながら、やんちゃの後始末をする職員もやっぱり笑ってて、次は何してくれるんやろって密かに期待すらしてる感じだった。 娘さん登場 ある日、娘さんが面会に来られた。 ぼくはお会いしたことがなかったので挨拶させて頂くと、 「あぁ新しい部長さん、母がいつもお世話になってます!よろしくお願いします!変わった髪型してはりますね!ハハハハハ!」 みたいな感じで、初対面でいきなりぼくのマッシュルームカットをイジッてこられた。 サバサバして明るくて豪快な感じ。 一瞬で娘さんのキャラクターがわかった気がした。 と思ったらいきなり、 「もう!お母さん。しっかりしいや!」 と笑いながらAさんのお尻をポンッと叩いた。叩かれたAさんのほうもニコニコ笑ってた。 ぼくはこの親子のことが好きになった。 Aさんのアゴのヒゲ 施設には「バス旅行」や「秋祭り」といった、ご家族のみなさんも一緒に参加して頂ける大きなイベントがいくつかあり、娘さんは必ず参加して下さっていた。 ぼくはそういったイベントの統括指揮を取ることが多かったので、娘さんともお話させて頂く機会が増えていった。 Aさんと手をつなぎながらも悪態をつき、職員をねぎらい、いつも笑顔でイベントを楽しんでくださる娘さん。 娘さんがおられることで、イベント中は、やんちゃをされずにただひたすら笑顔のAさん。 ほんとに素敵なお2人だなって思って見ていた。 Aさんにはひとつの特徴があった。 アゴの左側に大きなイボがあり、そこから長~い一本のヒゲが常に生えているのだ。まるで「波平さん」みたいに。 長くなってきたら職員のほうで切ろうとするが、それはなぜか拒否されるAさん。 だが一ヶ月に一回、娘さんがお連れする美容室から戻られると、キレイに無くなっているのだ。 美容室でならOKなんやって思いつつ、でもAさんらしいなって思っていた。 Aさんとのお別れの時 そんなAさんでも高齢には抗えなかった。 いつの頃からか、少しずつ食事を食べなくなり、日中も寝ていることが多くなり、足元に力が入らなくなり、車椅子やオムツが必要になっていった。 面会のたびに、 「お母さん、しっかりせなあかんで!」 と声をかけておられた娘さんだったが、じょじょに弱っていかれるAさんを感じながら、施設での最期を希望された。 職員はお元気だった頃からのAさんの写真を厳選して、アルバム作りをし始めた。Aさんの居室に置いて、娘さんがいつでも見れるようにとのことだった。 どの写真にもいい笑顔で写るAさんがいた。 日に日に弱っていくAさんを前に、ある女性職員が言った言葉、 「何してくれてもいいから、また元気になってよ…」 は、みんなの気持ちを代弁していた。 その女性職員の言葉を聞き、Aさんの数々のやんちゃを思い出しては、思わず吹き出してしまうこともあった。 それからほどなく、Aさんは息を引き取られた。いよいよの時点で施設に泊まり込まれていた娘さんと、たくさんの職員に見守られながらの最期だった。 Dr.の死亡確認後、その場にいる誰もがこらえ切れずに涙する中、娘さんは、「お母さんお疲れ」と笑いながら、顔を両手で覆うようにして語りかけ、次の瞬間…イボのヒゲを、「ブチッ!」っと引っこ抜いたのだ。 時が一瞬止まった後、みんなが一斉に大爆笑。その場が一気にほぐれた。 葬儀屋さんがお迎えに来られた。お見送りの為に、たくさんの職員が施設の玄関まで降りた。 娘さんは、施設長やケアマネジャー、相談員、看護師など1人ずつに挨拶をして回られ、Aさんのフロアの介護職員にも笑顔で1人ずつ声を掛けて下さった。 介護職員はまた全員が泣いていた。 娘さんは、一番最後にぼくに声を掛けて下さった。 笑顔で「部長さん、ありがとうね。ここでお世話になって私たちほんまに幸せやわ」と言って下さった。 ぼくはまた、Aさんのやんちゃの数々、娘さんとAさんとのやり取りの数々、さきほどの「ヒゲ抜き」を思い出し、泣きながら笑った… 娘さんが遺影に使う為にと、施設で撮った中から選んだ写真のAさんは、やんちゃしてる時の無邪気な笑顔の、ヒゲのあるAさんでした。 あんな最期のお別れは、これまでもこれからも、きっとないんだろうなと、ぼくの心に強烈に刻まれています。 Aさんと娘さんからは、ほんとに多くの大切なものを頂いたような気がしています。 忘れがたい、10年前のお話です。

  • ウンチを渡そうとしてくるAさん

    認知症のAさん(男性)は、夜中にウンチを渡そうとしてくる。職員が手袋をしてウンチを取ろうとするとご立腹。 「無理やり手を洗わせて頂くんですけど、めっちゃ抵抗されるんです」とみんな途方に暮れていた。 状況がよくわからんので、ぼくが夜勤に入ってみる。が、初日は空振り。後日迎えた2回目… 1スタッフとして現場に入るまでの準備と心構え 普段は介護部の責任者として、事務的な仕事がほとんどのぼくは、実際に1スタッフとして現場に入るのは稀なことである。 人員不足などでヘルプせざるを得ない時には、事前に担当するところの入居者さんの情報や、業務の流れなどを確認するようにしている。 情報さえきっちりと教えてもらっておけば、いろいろなお手伝いなどは経験があるのでどうにかなるのだが、逆に情報がないと何をすればいいのかわからない状態になる為、はっきり言うと使い物にならないのだ。 責任者として、後輩から「使い物にならない」というレッテルを貼られると、その後、言葉に説得力を持たせることが出来なくなる為、何としても避けたいところ。 この時も、夜勤に入ってみると決めてから準備を入念にして臨んだ。だが、初日はAさんの「ウンチを渡してくる行為」はなく、空振りに終わった。 それが良かった。久しぶりの夜勤の感覚を掴むことが出来たし、入居者さんの夜のご様子を知ることが出来た。業務の流れも把握した。 Aさんに対して、「今日こそは来てくれないかな」という気持ちで2回目の夜勤を迎えられたのは、気持ちの余裕を持てたという点で、とても良かった。 そしてその時は訪れた このエピソード当時の夜勤の勤務時間は、夕方の17:00~翌朝の10:00まで。 夕食前から業務に入り、夕食、歯磨き、トイレ(オムツ交換)、就寝の準備、寝る前のお薬、就寝という感じで、だいたい22:00頃までには、入居者さんのみなさんは、眠りにつかれる。 情報によると、Aさんが例の行動をされるのは、夜中の2:00頃が多いとのこと。 とりあえずAさんが動かれるより前に、夜勤中にすべき雑務を終わらせていく。このあたりは、1回目に夜勤に入ったことで、スムーズにこなすことができた。 一方、なかなかAさんは起きてこられず、2:00にみなさんの居室を巡視した際にもよく眠っておられた。 「今日も空振りかな」と思っていたが… 夜中の4:00頃、廊下の向こうに人影が見えた。 右半身麻痺の為、右足を引きずって歩くシルエットは間違いなくAさん。じょじょにこちらに近づいて来られる。 左手が上に向いているのがわかる。その上に何かを乗せておられるのもわかる。 目の前まで来られるにつれ、乗っていた黒い物体が確認できた。まぎれもなくウンチだった。 それを、受け取れといわんばかりに「っん!っん!」と、ぼくに差し出してこられる。 「ほんまや!何で?」「何でこんなことされるんやろう?」 行動のヒントは居室にあった Aさんは、認知症からくる失語症でしゃべれない。なので、この行動がどういう意味なのかお聞き出来ないし、言葉から推測することも出来ないのだ。 手のひらにウンチが乗っているので、すぐに取って手を洗ってさしあげたいのだが、手袋をして受け取ろうとすると、事前の情報通り、やっぱり「うーーん!!」といって怒って取らせて頂けない。 「うーん、どういうことやろ?どういう意味があるんやろ?」と思いつつ、廊下でAさんとのやり取りをしていると、他の入居者さんにご迷惑をおかけしまうおそれがあるので、なんとなくAさんを居室にお連れすることにした。 「居室に何かヒントはないんかな?」とも思いつつ… 灯りをつけて居室の中を見渡すと、観音開きの扉が開いたり、ロウソクを立てる受け皿?が倒れていたりと、お仏壇が乱れているような気がした。 さっきまで(の巡視で)そんな感じやったかな?なんか普通やったような… 念のため、Aさんの顔を見て「お仏壇ですか?」と聞くと、ウンウンとうなずかれた。 やっぱりそうか… でも何? お仏壇が何かあるんかな?… !!! 考えて考えてようやく気付く。念のため、お声掛けさせて頂く。ウンチを指して「お供えってことですか?」 すると、ウンウンとこれまでになくうなずかれた。 やっぱそういうことやったんや! ついテンションが上がり、「わっかりました!」と言って、手袋で受け取ろうとすると、やっぱりご立腹で渡して下さらない。 マジか…素手じゃないとダメってこと? 「大事なお供え物を汚いもの扱いして、手袋で触ろうとするなんて!」っていう感じなのかな? 汚いもの扱いとか、手袋の意味とかは理解されるんや。 なんて思いつつ、覚悟を決めて手袋を外し、Aさんの前にぼくは左手を差し出した。 すると、Aさんはウンチを渡して下さった。 若干、罰当たりな気持ちになったが、そのウンチをお仏壇の前に供えるように置いた。 それを見たAさんは笑顔になられた。 「手を洗いましょうか?」とお聞きして洗面台にお連れすると、すんなり手を洗わせて頂けた。それからベッドにご案内し、横になって頂くとほどなくお休みになられた。 原因を取り除くことで理解できない行動が消えた 夜勤明けでフロアの職員に聞くと、「そういえばお仏壇が乱れてることありました」と数人が気付いていたことがわかった。 だが、ウンチを渡してくる行為とは結び付かず、誰もがあまり気にせずに扉を閉めたりして、整えていたとのことだった。 Aさんのご家族は、Aさんが施設に入居されてからほとんど面会に来られていなかった。当然、差し入れなどもないので、お供え物も入居時以来、何もなかった。 Aさんは失語症である為、普段からどのようなことを思って施設で生活をされているのかが掴めていなかった。 しかも、ちょっとしたことでご立腹なさる性格のかたでもあったので、お仏壇にはあまり触ってはいけないという思いがみんなの中にあったのだ。 ウンチを渡そうとされる行為が現れてきた時も、何故そういう行為をされているのかが、誰も想像できなかった。 その日から、職員がお仏壇のお世話をさせて頂き、施設のおやつの余りなどをお供えすることで、ウンチを渡そうとしてくる行動はなくなった。 改めて、認知症のかたの行動には意味があり、その原因を取り除くことで不可解な行動は消失するんだということを実感した。 そして、その原因を解き明かすヒントは、そのかたの微妙な表情の変化や、生活環境などにひそんでいることがあるというのも学べた事例でもあった。 Aさんへの対応がうまくいき、翌朝、フロアのみんなに報告した時の「部長もなかなかやるやん」って感じが忘れられない。 介護という仕事が楽しいって思えた、14年ほど前のエピソードでした。 Aさんのその後 失語症ということに加え、ご自分から何かを訴えてこられるということが、このウンチを渡してこられるという行動以外になかったAさん。 そしてちょっとしたことで「うーーん!」とご立腹なさるので、施設入居以来、職員みんながどのように接するべきか戸惑っていた。 食事やトイレ、入浴のお声掛けなどには、すんなり応じて下さるので、ケアに困るということはなかったが、普段からのコミュニケーションという点で難しさを感じていた。 この一件がきっかけで、こちらから質問をさせて頂き、ウンウンと頷かれると正解、「うーーん!」とご立腹なさると不正解というコミュニケーションに、みんなが慣れていった。 怒りはあらわにされても、だからって暴力とかそういった行動をされる方ではない、ということがわかったのだ。 適度な距離感が掴め、コミュニケーションも取れるようになったことで、Aさんは「笑顔のとっても素敵な優しいおじいちゃん」として職員みんなから愛される存在になられた。

  • だんだんプロになっていく

    最初から『介護士』な人なんていない。 ぼくが介護士として仕事を始めたのは、29歳の頃。 それまでは家庭の事情で、いろんなアルバイトを昼夜問わずに掛け持ちしながら、お金を稼げるだけ稼ぐ必要があったので、将来、こういう職業に就きたいといった希望や夢なんて全くなかった。 そんなぼくが、成り行き任せに介護士をすることになったので、「志」なんてあるわけもなかった… 何も持たない『介護士』としてのスタート 29歳で介護士としてデビューしたのは、家の近くに新しくできた『住宅型有料老人ホーム』で、そのホームが新設されるにあたり、半年後のオープンに向けて新入職者を募集していたのが、ぼくが介護士になるきっかけだった。 全くの無資格でなんの経験もない29歳の男性が面接に受かるはずもないということで、急遽、「ホームヘルパー2級(当時)」という資格が最速で取得できる専門学校に申し込んだ。 週5日、1日5~6科目の座学を約1ヶ月と、5日間の実習を経てヘルパー2級を取得。 実習をさせて頂いた特別養護老人ホームのヤバさには面食らったが、「ぼくはこんな施設では働くまい」「こんな介護士にはなるまい」という反面教師として今でも役立っているから、ある意味では勉強になったように思う。 そうして資格を取得して臨んだ有料老人ホームの面接で、無事に採用して頂くことができた。 その後、オープンの1ヶ月前からホームでの研修という形で勤務が始まった。 初日、集められた職員を見てぼくはビックリした。 同法人の別の施設で働いていた男性が介護部の責任者である主任としておられ、オープニングスタッフの中から経験豊富な女性が副主任として紹介された。 あと2名だけ他施設で経験のあるかたがおられたが、それ以外の人は、ぼくを除いたほぼ全員が、「卒業時に介護の資格を取得できる学校」を卒業したばかりの若い職員ばかりだったのだ。 「え?こんな未経験者だらけで大丈夫なん?」と思ったが、どうやらこのメンバーで本気で頑張るらしかった。 研修が始まると、ぼくだけが圧倒的に介護の知識がないことにさらにビックリした。 そりゃそうですよね。たった2ヶ月足らずの資格取得の為だけの勉強で、経験豊富やかたや、専門の学校で学んできた連中と渡り合えるわけがない。 なのに、いろんな職場経験は豊富なので、雑務だけは誰よりもできた。 そのことが「災い」し、開設準備期間中に、もう1人の副主任に抜擢されてしまったのだ。 そんなの、プレッシャーでしかなかったが、給料が一般職員に比べて上がるのですぐに首を縦に振ってしまった。 こうして、未経験で知識不足&介護士としての志も何もないままの副主任が誕生した。 迎えたオープン初日。いきなり、とんでもなく拒否の強い寝たきりのおばあさんが入居してこられ、ロビーで大絶叫! ぼくはどうしたらいいのかわからず、他の職員と一緒にただ黙って見ていることしかできなかった。 だがその数日後、ぼくはこのおばあさんに、介護士としてのやりがいを教わることになる。そして介護職という仕事にのめり込んでいくことになるのだ。 ※このお話は、『介護職のやりがいを教えてくれた人!18年間介護士を続けられる理由とは?』という記事に詳しく書いています。 誰でもやろうと思えばできること 副主任という立場上、他の職員が対応に困るような入居者さんの対応を率先してせざるを得ないという状況が、多くの失敗と、ごくまれではあるが成功体験をぼくにもたらしてくれた。 そうして徐々にに介護士として成長していった。 いろんな事情でそのホームを退職し、次に選んだ職場も、家の近くの新設の施設だった。 今度は『介護老人保健施設』のオープニングスタッフ。 この施設は介護経験者を多数採用しており、たった1年半の経験しかなかったぼくは、一般職員からのスタートだった。 だが、ここでも、他の職業を多数経験していることが役に立ち、さらに有料ホームでの1年半の介護経験と副主任経験がプラスされていた為、開設準備期間中からちょっと目立っていた。 オープニングの施設は、役職者として予定していた職員が急遽、入職してこないなどのハプニングが起こることも多い。 この時は、開設直後から事業所責任者と考え方が合わないという理由で、副主任にすぐに欠員が出た。 そしてぼくが抜擢された。 さらに半年後、あるフロアの主任が退職。 ぼくが選ばれた。 この施設で主任は、介護部長に次いで介護部として2番目の役職だった。 トントン拍子に役職が上がり、経験したことのない管理業務をする必要があったが、やりながら覚えたらどうにかなったし、何より入職時に比べて給料はだいぶ上がった。 なぜぼくを抜擢してもらえたのかを聞いてみたら、「たっつんさんは人が嫌がることを率先してやってくれてるでしょ?だからです。」と、介護部長が言ってくださった。 ぼくは、自分が29歳という、人よりだいぶ遅いタイミングで介護士になった。 周りの人より知識も経験もなかった。 だから、人がしないようなことも率先してやった。 出会った入居者さんとの関わりの中で、いろいろな学びを得ることで、周りの人に追いつこうとした。 そしてそれは、誰でもやろうと思えばできることだったと思う。 誰でもやろうと思えばできることをやってきた。それを認めてもらったのは嬉しかった。 やってみないとわからないから、とりあえずやろう それからぼくは32歳で介護部長になり、それ以降現在に至るまでに、2法人5施設で介護部の責任者として、15年間、現場に立ち続けている。 介護士は低収入と言われるし、実際にそうだ。 介護部の責任者のぼくですら、基本給の安さには驚きを隠せない。 だが、役職手当などもろもろついたら、世間一般的な47歳のかたの平均収入と同じくらいは頂けていると思う。 介護士の低収入への対策には、「昇格で補う」という方法がある。 が、これを嫌がる職員が多いこと多いこと。 ただでさえしんどい業務に加えて、管理業務をするのが大変そうだから嫌だという人が圧倒的に多いのだ。 (もちろん、その素養のないかたがおられることも事実ではあるが) だが、低収入を理由に介護士を辞めて、これまで培った知識や経験、人間関係などを全部捨てて、他の職業に新たにチャレンジすることのほうが大変だと思ったりするが、どうだろう? 役職に就きたがらない人が多いということは競争率も低く、なりやすいとは思えないだろうか? やったことのない業務に対して、こなす自信がないからという思いはないだろうか? ぼくは家族のために少しでも収入を増やしたくて、昇格の話を頂いたら、全部即答で、ありがたくお引き受けさせて頂いた。 当然、したことのない業務や足りない知識と、簡単には得られない職員からの信頼に苦労もしたが、得るものもまたとてつもなく多かった。 給料も当然上がった。 人間関係など、いろいろな理由で退職を考えるに至った時、役職に就いているという経歴が、次の就職先を探す際に大いに役立ったし、なんなら条件を自分で選ぶことさえできた。 後輩に、自分よりも明らかに認知症のかたの関わりが上手く、介護センス抜群の天才が現れた時、その天才の上司でいられる為にどうしたらいいかを考えた。 「たっつんさんの元で働いていても、自分の成長になりません」と言う理由で退職されてしまうことを恐れた。 そこでぼくは、介護保険制度の勉強や認知症についての勉強と、リーダーシップについての勉強をした。 本を読み漁った。 結果的に、知識や、指導する時の説明の上手さ、職員との関わり方などで、その天才に「自分にはできないっす。部長から学ばせてもらいます」と言われるまでになれた。 みんな最初は、何の武器ももたない状態からのスタートだと思う。 だが、自分自身の現在地を正確に把握し、周りの人と比べて足りないところを補うための工夫や、自ら率先して体験することで、徐々に徐々に、プロの介護士になっていくのだと思う。 自信がないからこそやってみる。自ら飛び込んでみる。 このことが、ほんとに大事だなって思いつつ、そういう人があまりいないなって実感から、この文章を書きたくなりました。

  • 認知症の母を施設に入居させるまで。ひとり娘の奮闘記②

    前回のお話。 80歳を超えたあたりから物忘れの症状が出始めた母。 病院で検査を受け、初期段階の認知症であると診断された母は要介護2と診断された。 ひとり暮らしを続けてもらうためにも、ひとまずデイサービスを受けてもらおうとしたが、問題が勃発する。 デイサービスに行きたくない! それまで母は毎日バスに乗り、ひとりで駅前をふらついていた。 基本的に家でのんびりできる人ではないことや、高齢者は申請すれば市営バスを乗り放題であることもあった。 しかし、母は初期段階であるとはいえ認知症である。 万が一迷子になって、色々な人にご迷惑にならないとも言いきれない。 そんなこともあってデイサービスを始めようとしたのだが。 まず、お迎えのバスに乗らない。 「私には必要ない。興味もない。だから行きたいときに行く」 デイサービスは行く曜日をきちんと設定してプランを作るものなので、そんな都合よく利用できるものではない。 しかし、ケアマネージャーさんはこの母の提案を受け入れてくれた。 そんな風に始めたデイサービスだったが、結果的に母はほとんど通わなかった。 母ははかなりの人嫌い 愛想よくふるまうことは得意だが、基本的にわがままなので人に合わせることが好きではない。 子供の私に 「人は利用するものだ。利用されるな」 なんて説教をした人である。 そんな母にはもちろん友人はほとんどいなかった。 私の知っている限り、地元にいる友人が1人と、同じ会社に勤めていた人1人だけである。 ちなみに引っ越してくる前は合唱やお琴などさまざまなサークル活動にも参加していたようだが、どれもこれも長続きはしなかった。 とにもかくにも、母は1人でいることの方が好きなのだ。 人が集まって雑談をするような場所は、基本的に好まない。 数か月間様子を見た後、ケアマネージャーさんからは、 「訪問介護とデイサービスの両方が使える施設を利用してはどうか」 との提案を受けた。 訪問介護を受けることに デイサービスに来ないのであれば料金がもったいない。 そのうえ、薬を毎日服薬することが80歳過ぎてもほとんど無かった母は、病院で処方された認知症の薬をほとんど飲んでいなかった。 1~2か月に一度、私が病院に連れて行くのだが、母の家で残量を確認すると半分以上が残っていたのだ。 そのため、服薬管理と体調管理をしてくれる訪問介護にして、気が向いたときにデイサービスを利用できるほうが、母に向いている、と、提案してくれたのだ。 私はこのケアマネージャーさんをかなり信用していたので、できればこの施設で面倒を見てもらいたかったが、訪問介護を扱っていない以上仕方ない。 そしてケアマネージャーさんから紹介された施設に母を連れて行き、手続きをした。 そこのケアマネージャーさんは地域包括センターのケアマネージャーさんから話を聞いていて、快く受け入れてくれた。 しかし、ここでもやはり、事件は起きるのである。 私はそんなものを頼んでいない とりあえず始めたのは訪問介護だった。 毎日朝、家に訪ねて行ってもらい、服薬と体調を見てもらう。 およそ10数分の行程だ。 このくらい娘の私がやれ、と思われる方もいるかもしれないが、私には小学生の娘が2人いた。 そして介護施設での仕事もある。 私が自宅から車で15分のところに住んでいる母のところに毎日行って、それらを確認できる時間をとることはとてもではないが難しかった。 母は訪問介護すらも拒絶 家に入られるのは嫌だから、と玄関での対応にしてもらったにも関わらず、だ。 訪問介護を契約したことをすっかり忘れ、 「おまえは誰だ。私はそんなものを頼んだ覚えはない」 と、怒鳴り散らしたのである。 しかも1度や2度ではない。 かなり頻繁に罵倒していたらしいのだ。 また、訪問介護が来る前に出かけてしまうこともあった。 朝9時に予定しているのに、それよりも早く出かけるのだ。 駅前の店なんて、喫茶店くらいしか開いていないのに。 もちろんデイサービスのバスにも乗らなかった。 というか、拒否をした。 そこでも数か月様子を見てもらったが、とうとう施設が根をあげた。 「受け入れて頂けないのであれば、これ以上の対応は無理です。お金ももったいないですし」 私は頭を抱えることしかできなかった。 そしてこの後、驚愕の事実を知るのである。 いくら使っているのかわからない ある日、母が訪問介護とデイサービスの料金に文句を付けてきた。 施設の利用料は全て母の預金から引き落としされている。 しかし、施設利用の契約をした記憶が無い母からすれば、訳の分からない料金が引き落とされている、とご立腹なのだ。 母は通帳を私に見せ、 「どういうことか」 と怒鳴り散らす。 認知症になってから母はイライラして怒鳴り散らすことが多くなっていた。 私は通帳を見ながら、施設に訪問介護とデイサービスの契約をしたこと、その場には母もいたことを告げる。 そこで私は驚愕の事実に気が付いた。 80歳を過ぎた母は基本的に年金暮らしだ。 もちろん年金だけでは生活することは困難なので、退職金などの貯金を切り崩して生活をしてきた。 子供のころ、裕福な生活などしてこなかったし、特に今は残金も限られているのだから、母もそれを理解して生活していたはずだった。 ここ数か月では頻繁にお金がおろされていた 母は通帳を2つ持っていた。 年金が入ったり家賃が引き落とされる通帳と、退職金などの貯金がある通帳。 基本的に貯金のある通帳から引き落とし通帳にお金を移し、そこから引き落として生活費にする、というめんどくさい行程を踏んでいたのだ。 だからこそ、あまりの引き落としの回数の多さに私はめまいがした。 試しに母に1週間レシートを取って置くように伝え、1週間後に再び確認する。 しかし、レシートをとっておいて家計簿をつける、なんてことをしてこなかった母は、私がレシートを取って置くように言ったことをすっかり忘れていた。 それでも残っていた2~3日間のレシートを見て、私はめまいを覚えた。 母は、毎日駅前をふらつき、お茶を飲み、ランチを食べ、帰りにお弁当を買って帰ってきた。 その合計額が、なんと1日あたり2,000~3,000円だったのだ。 毎日こんな生活をしていたら、単純計算で1か月60,000~90,000円を食費だけで使っていることになる。 母にそう指摘したのだが、 「私はそんなに使っていない」 の、一点張りだった。 自分が毎月いくら使っているのか、理解できていない これはまずい。 うちには母を援助できるような余裕はない。 ただでさえこれからお金のかかる子ども達が2人いるのに。 最近の母は家賃・光熱費・食費等を含めて1ヶ月に20万円程使っていることになる。 このままのペースでは、早かれ遅かれ貯金が底をつく。 そうなると生活保護を受けることになってしまう。 こんなお金を無駄に使ったことで、お金が無くなったから生活保護なんてありえない。 しかし、今ならまだ間に合う。 私がお金を管理していけば、あと数年はなんとかできるだろう。 私は母を説得し、お小遣い用に使っていなかった通帳を渡して、そこに生活費を入れるから、他の通帳は私が預かることにした。 もう今更だが、やっぱりここでも問題は起こった。 私のお金を返せ 私は母が銀行に乗り込むのを防ぐべく、事前に銀行に訳を説明しておいた。 電話口で銀行の偉い人に、 「認知症の母がお金を管理できないため、娘の私が預かっている。母が銀行に来ることがあると思うが、娘が預かっていると説明してほしい」 と、頼み込んだのだ。 銀行側はそんなことに対応していない、と言っていたのだが、私の必死の頼み込みを受け、しぶしぶではあるものの了承してくれた。 そしてやはり、母は銀行に 「通帳が無い」 と、言って訪れた。 それもほぼ毎日。 そのたびに窓口の人は私に電話をかけ、私はその都度、何度も母に同じ説明をした。 それと同時に、私は母に宅配でお弁当を頼まないか、と説得をし始めた。 せめて外で食べることを辞めてくれたら、少しは節約できる。 できればデイサービスに行ってお昼ご飯を食べてもらいたい。 なんならデイサービスにお昼ご飯を食べに行くだけでも構わない。 しかし、母は頑としてうなずかなかった。 「私は私の好きなものを食べたい。私のお金を私が好きに使って何が悪い」 その都度、私は母に残金が厳しいことを伝えるのだが、母は全く理解してくれなかった。 自分の理解したくないこと、わかりたくないことを率先して忘れていく 1か月ほど母の銀行通いは続いたが、何とかどうにもならないと理解したらしく、今度は私を罵倒するようになってきた。 「お金を返せ」 「親に向かってどういうつもりだ」 「私が何か迷惑をかけたか」 その他にもいろんな言葉を浴びせられた。 私はその都度、お金はきちんと渡してある通帳に振り込んでいること、このまま好きに使い続ければお金が無くなることを説明する。 しかし、その日は何とか納得しても、次の日には同じことが電話で繰り返される。 日によっては私のうちにきて、玄関で喚き散らすこともあった。 正直、近所から警察を呼ばれかねないレベルだった。 この時期、私はかなり精神的に追い込まれていた。 母の今後を考えて色々やったのに、何一つ報われなかった。 薬を飲むことを忘れ、適切なケアも拒否し、お金を湯水のごとく使いたがる。 そして今後の自分の生活を一切考えていない。 そんな母のせいで日々の生活に疲れ果てていた私は、1つの大きな決断をした。 仕事をやめよう… 私は第二の人生に、と始めた介護の仕事を辞めることにした。 とてもではないが、精神的に人の介護ができる状態ではなかった。 しかし、私が働かなければ家計が回らないので、必死で在宅でできる仕事を探した。 私は学んだ。 人を介護することと、親を介護することは大きく違う。 介護の現場で他のスタッフに相談しても、返ってくるのは 「ケアマネージャーに相談してみれば?」 「他に頼れる人はいないの?」 だけだった。 介護の現場で働いていても、結局は仕事だし第三者の目線でしか付き合えない。 というか、そうしなければやってられない。 それに介護職の人の中には、実際に自分の親の介護をした人はいなかった。 介護に関するいろいろな知識はあったが… しかし、それは仕事をするために必要なことでしかなかった。 逆に私に聞かれたとしても、同じ返事しかできなかっただろう。 無料の介護相談ダイアルにも電話した。 返ってきたのは 「大変ね」 「いろんな人に相談してみるといいよ」 だけだった。 愚痴を聞いてもらう分にはいいかもしれないが、何に相談をしても正直これといった解決方法が出なかった。 私の年齢で、親の介護をしている人はいなかった。 だから誰に相談しても、返ってくるのは 「大変ね」 だけだった。 違う。 そんなことを言ってほしいんじゃない。 具体的な解決策を知りたいのだ。 この頃の私はどん底だった この頃の私は、外に出るのも、電話が鳴るのも怖かった。 外に出たらそこらをふらついている母と会うかもしれない。 電話がなると、また罵倒されるのだろう、と気が滅入った。 しかし、家にいたとて、いつ母が怒鳴りに訪れるのかわからない。 私には安心できる時間は全くなかった。 これがあと何年続くのか。 私はどうしたらよいのか。 真っ暗闇の中、私はうつ状態に近い状態になってしまった。 ③に続く。

  • 新しい常識は、非常識の中から生まれる

    新しい常識は、これまで非常識とされていたことの中から生まれると思っている。 今、常識とされていることに誰も疑いを持たず、ずっと同じことを繰り返すだけだと、それに合わない人やそぐわないことが出てきても、「非常識」というレッテルを貼るだけで終わる。 全てのことは時を経てどんどん変わっていくにも関わらず、常識に捉われすぎて変化を嫌えば、発展や進化、成長は見込めない。 ぼくは、非常識の中に価値を見出す人でありたいなって思います。 食事介助の人には食事用エプロンが当たり前 食事介助が必要な状態の方には、お口から食事がボロボロこぼれて服が汚れるのを防止する為に、ビニール製のエプロンを付けて食事をして頂くのが、高齢者施設の当たり前の食事の光景である。 黄色いお花の柄のエプロンや、赤いチェック柄のエプロンなど、色とりどりのエプロンが並ぶ。 ぼくはあのエプロンがどうにも苦手。 「認知症や身体の麻痺などで上手くお箸やスプーンを使えないけど、なんとかご自分で食事を召し上がられる方」や、「介護士がお口に運び入れるまでをお手伝い(食事介助)させて頂くが、どうしてもお口の中のものがこぼれてしまうような方」には、エプロンをして頂いてもいいと思う。 だが、介護士による食事介助でお口の中のものがこぼれてしまわない方であれば、介助する側がお口に運ぶ際にこぼれないように注意すればいいので、エプロンは不要だと思っている。 そこで。 「食事介助が必要な方にはエプロンをする」を当たり前だと思っている介護士さんは、一度「エプロンなし」を試してほしいなと思う。 エプロンがあると服を汚す心配がないので、スプーンに乗せる一口の量にあまりこだわっていない状態。 ところがエプロンがないと、自分の「さじ加減」によってはこぼしてしまう恐れがある。 そうすると、こぼして服を汚してしまわないように、お口の中に確実に入れてもらえる量しかスプーンに乗せないようにするし、その方の食べるペースをより理解しようとする。 結果、のどを詰めるリスクが減るし、食事のお手伝いが上達する。少しならタオルで拭けるしね。 高齢者のおフロは週2回が当たり前 「おフロに週2回しか入れないって、自分だったら嫌だな」と思って、入居者さんの入浴の回数を、週3回にしてみたことがある。 高齢者施設の基準で、「週2回以上の入浴」と定められているからと言う理由で、だいたいの施設で週2回が当たり前になっている。 これをどうにか打破できないかと考えた。 ただ、ぼくの勝手な思いだけで職員みんなの負担になってはいけないので、介護部のみんなに提案する際に、業務改善案も一緒にプレゼンした。 反対多数を覚悟していたが、意外にも賛同してくれる職員さんのほうが多く、 中には、「自分もどうにかおフロの回数を増やしてあげたいと思っていました」と言ってくれる人も。 役職者を中心に会議で話し合いを重ね、業務改善の方法を固めていった。 それから、他部署のかたにも協力を仰ぎ、1ヶ月限定で週3回の入浴をお試しした。 事前の打ち合わせが功を奏し、想像していたよりは負担も大きくならずに1ヶ月間を乗り切ることができた。 お試し期間が終わり、入居者さんに感想を聞いてみると、「1日でも多くおフロ入れるほうがいいわ」という答えかと思いきや、ほとんどの方が「2日に1回はしんどいわ」だった。 100名の入居者さんのうち、「週3回入りたい」と希望された方は3名だけ。 その3名の方だけ、お試し期間が終わっても、そのまま継続した。 それ以降、新しく施設に入居してこられる方には、入浴の回数を週2回か3回かをお聞きするというルールができた。 それでもほとんどの方は週2回を選ばれた。 「おフロは出来るだけ毎日入りたいというのが当たり前」だと思っていたが、高齢者になると体力的にしんどかったり、誰かに手伝ってもらって入らないといけないことの羞恥心などから、回数は週2回がほとんどの方の適切な回数なんだと、この取り組みをしたことでわかった。 そういう観点で定められたかどうかはわからないが、「高齢者施設の入居者さんの入浴の回数は週2回以上」という、常識的には不衛生と思われる国の基準が、実は正しかったということがわかった。 夜間不眠の方の対応は、睡眠薬が当たり前 夜、目覚めると10分とたたずにナースコールを押してくるAさん(男性)にみんなホトホト困っていた。 「おしっこ出た」と言われてオムツを見たら出ていない。 「足が痛い」と言われてさすったりしても納得されない。 ドンピシャな対応が出来ていない感じで、ピンポンピンポンが朝まで続く… おしっこが出たと言って出ていないということから、①膀胱炎などの病気ではないかということで泌尿器科への受診が検討された。 同時に、 ②夜になって足の痛みの訴えがあった場合にシップを貼る ③夜にしっかり寝て頂く為に、日中、できるだけリビングで過ごして頂く ④もともと服用している睡眠薬の量を増やすかどうかの検討 という対応が話し合われ、②③についてはすぐに実施した。 だが、④の睡眠薬については、適切な量に調整するのが難しく、就寝前に服用した薬の作用が起床時にも残っていて、足腰がフラフラで転倒される恐れがあったり、食事の際に意識がはっきりしていないことで喉詰めのリスクが高まったりするので、容易に頼るべきではないという考えから、どうにか避けたいなと思っていた。 さらにAさんに関しては、認知症があって言葉がはっきりしない為、しっかり訴えを読み取れていないと感じていた。 まずはAさんの頻回なナースコールの本当の意味を探り、その理由がわかって対応できれば、睡眠薬も不要になるのではないかと考えた。 ぼくは自分が夜勤の時に、Aさんの居室前に陣取って入口の扉のスキマから、Aさんをよく見てみることにした。 ナースコールを押されるまでの間に、Aさんが身体を動かされたり、独り言を言われたりする中に、訴えたいことのヒントが隠れているのではないか? そう考えていたが、すぐに全く別の角度から問題がわかった。 Aさんの居室前で椅子に座って待機していると、どこからともなく、ボソボソと人の声が聞こえてくるのだ。 「何これ?誰の声?めっちゃ気になる…」 職員がコールで呼ばれて対応している時は、職員自らが発する声や音でボソボソが聞こえていなかったが、静かにしていると気になってしかたがない音量でずっとボソボソ聞こえてくるのだ。 そしてどうやらボソボソの合間にBGMも聞こえてくる… そう、隣りの居室の方が聴いておられる深夜ラジオの放送だったのだ。 Aさんに「音、気になりますか?」と言うとウンウンと首の縦振りが止まらなかった。 やっぱりこれか…ということで、隣りの居室の方にお願いして、イヤホンをして頂くことにした。 それで一発解決。 その日から、Aさんのコールが鳴り出すと、隣りの方にイヤホンをお願いするという流れで、Aさんは寝てくださるようになった…。 偶然の発見だったが、入居者さんが何をどう思い、どう感じて行動をされているのかを知ろうとした結果、問題が解決し、不眠の方への当たり前である睡眠薬の服用自体をなくすことができた。 新しい常識はこれまで非常識と思われていたものの中にある ぼくは子どもの頃から、よく「へそ曲がり」と言われてきた。 人と違うほうを選ぶ、人がやっていることをやりたがらない、流行っているものを敬遠する、というめんどくさい性格である。 ただ、流行っているものでも、「自分もいいと思えるもの」であれば、その流行りに乗っかるし、「人と一緒」が嫌なわけではなく、人と一緒を選択する前に、他にも何かないかを考えるひと手間がかかるだけなのだ。 そしてそれが仕事となると、「何を非常識なこと言ってるねん」と、特に上位層の方々や、変化を嫌うベテランさんから煙たがられる存在になってしまう。 でも、誰もがやってみようとも思わなかった「非常識」をあえて試すことで、実はソッチのほうが良かったという発見につながって「新しい常識」になっていったり、これまでの「常識」がやっぱり正しかったんだという根拠になったりするのを何度となく経験してきた。 そして、それこそが業務改善の提案や、自分自身の成長につながってきたように感じている。 これからも「非常識」と呼ばれるものも含めてフラットに見ることの出来る視点を養いつつ、入居者さんにとってよりよいケアにつなげたり、介護士がより働きやすい職場環境にしていけるように、「柔軟なへそ曲がり」であり続けたいと思います。  

  • 思い通りに身体が動かないAさんのイライラ

    認知症はないが、首から下が全く動かなくなっていく難病を患ってるAさん(女性)のイライラが止まらない。 居室で横になられる時は、ナースコールを左肩の上あたりに置き、ほっぺたで押せるようにセットする。 が、ちょっとでもズレたら、押したくても押せずに大声で職員を呼ぶことになる… 筋萎縮性側索硬化症(ALS) Aさんの難病、『筋萎縮性側索硬化症(ALS)』は、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。 しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経が主に障害を受けた結果、脳から「手足を動かせ」といった命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていくという病気である。 一方で、身体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが一般的とされている。 日本では50歳~74歳という、比較的若い時期に発症する人が多く、実際にAさんも70代前半のかたであった。 思い通りにならないイライラ 居室で横になっていて、ナースコールを押したくても押せなくなってしまった場合は大声で職員を呼ぶことになるが、他の業務をしている中、なかなか声は届かない。 結果的には、2時間ごとの職員の巡視が来るまで待たざるを得ない状況になる。ナースコールに細工を施してズレないように対策を取るが、どうしても上手くいかない場合もあった。 車椅子はリクライニング式のものを購入して使っておられたが、身体がズレてくることから長時間座っていられない。首にも力が入らないので、バランスが崩れるとグランと頭が落ちてしまう。 頭を安定して支えるサポート(U字になっていて後頭部を包むように支えるもの)もついているが、食事前にそのサポートに真っ直ぐに頭をもたれられるようにしないと、水分をストローで飲もうとしてお口で迎えに行こうとされるタイミングでグラン。 そもそも施設の食事について「薄味で口に合わない」と、常に言われていた。 トイレには座れずに終日オムツの中にせざるを得ない。 不快感があるので出た瞬間にキレイにしてほしいが、上にも書いたように、ナースコールを押せずにすぐに職員を呼べない場合は、次の巡視までその不快感を我慢するしかない。 寝たきりのかた用の『機械浴』という特殊なお風呂は「ちょっと怖い」と思いつつ、仕方なく入られる。 生活のほとんどの時間を居室でテレビを観て過ごす… 自分で動けないのに頭はしっかりしているという状態が、いかに過酷なものか想像できるはずもない。 そんな思い通りにならない毎日と、ご自分ではどうにもならない不甲斐なさとで、職員に対して常に愚痴をこぼしたり、きつく当たるなど、イライラをぶつけておられた。 例えば… 大声で叫んでも職員が気付かなかった場合、次に巡視に伺った職員に対しては特にボロカスに罵声を浴びせられた。 食事のお手伝い中も常にブスッとしており、職員や他の入居者さんと会話が弾むなどということはほとんどなかった。 唯一、湯舟につかっておられる時だけ、ホッとした表情を浮かべておられたが、それでも「ぬるい」と文句を言うことは忘れてはいなかった。 職員のみんなはだんだん、Aさんと関わること自体がストレスになってきているようだった。となると、ぼくやフロア主任がなるべくAさんと関わる担当をするということになっていく… 実際にAさんと蜜に関わらせて頂くと、言われていることはほんとに「仰る通り」のことばかりで、ただイライラを理不尽に職員にぶつけておられるわけではなく、「考えたらわかること」「ちょっと気を配ればできること」をしてくれない時に、怒っておられたということが理解できた。 Aさんの為にも、関わる職員の為にも、Aさんが心穏やかに過ごして頂く方法はないかを考える… Aさんのご要望を実現していく 他部署の職員も交えて、Aさんの対応についてカンファレンスを行う。 そして、少しでもイライラを解消する為に、『Aさんが望んでおられることをできるだけさせて頂く』ということになった。 その為に、その時々で何を望んでおられるのかを知る必要があった。 Aさんにご要望をお聞きすると… ・熱めのお風呂に5分浸かりたい ・ウンチが出たらすぐオムツを替えてほしい ・お風呂とオムツはなるべく女性にしてほしい ・おかずの味付けをもう少し濃くしてほしい ・下痢も便秘も嫌なので、ヨーグルトは欠かさず朝食べたい そして、 ・主人の油絵が好き ・韓流ドラマが好き ・主人と行った海外旅行がとてもいい思い出 などなど… といったことを挙げられた。そしてご自身のお身体の状態から、 ・こうしてもらえると嬉しい ・こうされるとしんどい、ツラい といったことも教えて下さった。 挙げて頂いたことを、みんなで協力してできる範囲で実現させていく。 ●お風呂は機械浴に43℃で5分間。 ●ウンチ後はすぐにオムツ交換。これをする為に、ナースコールで呼ばれていなくても、1時間おきにAさんの居室を伺うようにした。ただしこれは、男性が対応せざるを得ない日もあった。 ●フロアの冷蔵庫には調味料を常備し、味付けが薄いと言われた際に醤油などを使えるようにした。 ●ご主人の面会時にはヨーグルトを買ってきて頂き、一緒に居室で過ごす日をなるべく作って頂いた。 ●ビデオデッキ(当時)を持ってきて頂き、『世界遺産』や『韓流ドラマ』を流した。韓流ドラマについては、TSUTAYAでぼくが選んでレンタルしてきた『私の名前はキムサムスン』にドはまりし、他のかたにも見せたいとのことで、Aさん主催と銘打って上映会をしたほどだった。 ※キムサムスンはぼく自身もハマり、あとで全話を一気見したのは余談ですが、観たことないかたはぜひ見てほしい作品です。マジで名作ですから。 こういった取り組みを進めていくうちに、業務中に少し手の空いた職員が話し相手としてAさんの居室を訪れるようになった。ご主人も積極的にご協力くださり、居室にはみるみる油絵が増えていった。 Aさんのイライラは少しずつ解消し、職員のみんなもAさんが優しくなっていかれるのが嬉しいようであった。どんどん良好な関係性が築かれていった。 そんな時、ぼくの施設異動が決まった… 満を持して託せるようになったチーム 打ち明けるのを数日悩み、夜勤明けで行うAさんの朝の身支度の際に伝えた。歯磨きと洗顔のルーティン。 ところどころにマッサージ的な要素を加えるぼくのやり方をすごく喜んで下さっており、「もうこれもしてもらわれへんようになるんやね…」とすごく落ち込まれた。 「これ」の詳細は… まだ他のみなさんが目覚めておられない時間帯にAさんの居室に行き、1番に起きて頂く。朝の身支度の時間を確保する為である。 パジャマから洋服に着替えて頂く。それからフロアのもう1人の夜勤者に協力してもらって車椅子に移って頂き、洗面台の前へ。 Aさんの習慣として起きてすぐの歯磨きをさせて頂いた後、お湯で温めたフェイスタオルで顔全体を覆い、温めながら拭かせて頂く。 その時に、タオル越しにお顔をマッサージするのだ(散髪屋さんのマネ)。かつ、両耳も拭きつつマッサージ。 それから、Aさん愛用の化粧水をピチャピチャつけさせて頂いて、最後に髪の毛をとく。 リクライニングをいい感じに倒しつつ、テレビが見れる位置で朝食が用意できるまで居室で過ごして頂く。 というルーティン。 異動までの間にフロアの職員に「これ」のやり方を伝え、みんなができるようになった。 「部長さん、たまには顔出してね」と泣きながら言って下さったぼくの最終日。Aさんのイライラが一切なくなっていたことに気付いた。 残ったメンバーに託して、安心して離れられると確信した。 高齢者施設には、認知症はないが身体が不自由な為に入居しているかたもおられる。 頭がしっかりされているぶん、ご自分の思い通りにならないことへの歯がゆさ、苛立ち、不安や不満は想像を絶するものがある。 そういったかたへの身体的・精神的ケアも決して疎かにしてはならないと実感した、Aさんとのお話です。  

  • 認知症の母を施設に入居させるまで。ひとり娘の奮闘記①

    私は母が43歳の時に産まれた。 今の母は80歳後半。 80歳を超えたあたりから認知症の症状が出始め、現在の介護度は要介護2。 認知症と診断され、介護度を判定してから1年、グループホームへ入居した。 これはひとり娘の私が認知症の母をグループホームへ入居させるまでのお話。 親を施設に入れることに悩んでいる方の参考になるとうれしいです。 母と私の関係 最初に母と私の関係をお伝えしておきたい。 私は一応一人っ子だ。 私は子供時代、普通の家庭で育っていない。 詳しく語るととても長くなるので割愛するが、簡単に言うと昼ドラの大人の愛憎ドロドロの真ん中で泣いている子供が私だと思ってもらえればいい。 そのため、私は物心ついてからずっと「親」が嫌いだった。 小さなころからずっと親から離れてひとりで暮らすことに憧れた。 母はそんな環境だったからか、いつもイライラしていて、よくつまらないことで私を怒鳴った。 大人になったから当時の母の気持ちは理解できないこともないが、それでも私はいまだに母を許すことができない。 父と母は長らく家庭内別居状態で(父はほとんど家にいなかったが)、私が高校生の時に正式に離婚したらしい。 私は高校を卒業してすぐに就職し、成人してまもなくひとり暮らしをした。 その後母はなぜか私の出生の秘密を手紙にしたためてきて(要するに私は普通の子供のように、周りから望まれて祝福されて産まれたわけではない。複雑すぎる環境で産まれたのだ)、それが原因でパニック障害を発病し、それをきっかけに母と数年没交渉になったこともあった。 ちなみに私の父にも母にも親戚はいない。 親戚にあたる人たちはいるが、彼らは私たち一家と関わりたくないのだ。 それもこれも父と母の自業自得ではあるのだが。 その後、パニック障害を克服した私の中で「ひとりぼっちの母の面倒を見てあげるべきではないか、一応高校までは面倒を見てもらったのだし」と思い直し、母と再び連絡を取り合うようになる。 私はその数年後結婚をし、地元を離れた。 高齢の母を地元に残しておくと、死んだ後の処理が大変になるかもしれないと思った私は、しばらくして私の住んでいる街に母を呼び寄せた。 それから数年して、母は認知症を発症する。 母が同じことを繰り返し話すようになる 母が80歳をすぎたあたりで、私は母の違和感に気付く。 同じことを繰り返し話すようになったのだ。 私の母は保険の営業を60歳すぎまでやっていたこともあって、しっかりしている印象が強い。 だからこそ、こんな風に同じことを繰り返し話すことに、とても違和感を覚えた。 母が私の住んでいる街に引っ越してきた当初、私は母の住む地域にある地域包括支援センターに母のことを伝えておいた。 もちろん、母にも何かあったら連絡するか、地域包括支援センターに言ってみるように伝えてあった。 実際、母は1か月に何回か地域包括支援センターに行き、読書をしたりしていたようだ。 その地域包括支援センターのケアマネージャーさんと私も連絡をとっていたこともあり、母の現状を相談すると、近くの総合病院で認知症の検査をしてもらえることを教えてくれた。 私は母に「念のため」を強調し、病院につれていって検査をしてもらった。 MRIは特に異常が見られず、「長谷川式」と言われる検査でも「年相応」との診断を受ける。 「そうか。母も80歳を過ぎたし、物忘れもひどくなるか」 検査の結果を受け、私は自分をそう納得させた。 そしてそのあと、施設で利用者さんたちにやっていただいているような、簡単な計算ドリルや塗り絵などを買ってあげたのだが、母は面倒だから、とほとんどやっていなかったらしい。 しかし、この1年後に大きな事件が起きる。 母の家に泥棒が? ある日、私の携帯に警察から連絡が入った。 「お母さんが泥棒が入ったとおっしゃっていたので現地捜査をしましたが、他人が入った後や物が盗られたという形跡は見られません」 「もう何度も同じような通報が入り、こちらとしても困っています。娘さんの方で対処してもらえませんか?」 私はそんな警察の話を、ただひたすら謝りながら聞くしかなかった。 そしてその後、母の賃貸アパートの管理会社からも連絡が来る。 「お母さんが私どもが勝手に家の中に入って物を盗ったというんです」 「もちろんそんなことはしていませんし、何度もそんな風に疑われるのであれば、退去してもらうほかありません」 どうやら母が「泥棒が入った」と騒ぎ始めたのは今回が初めてではなく、何度かやらかしていたらしい。 そして一度は管理会社に鍵を変えてもらっていたのだそうだ。 そのあと何度も泥棒説を繰り返し、挙句の果ては管理会社を泥棒呼ばわりしたらしい。 私は電話越しで顔面蒼白になりながら、とにかく管理会社に謝った。 80歳近い老人のひとり暮らしのアパート探しは簡単ではなかった。 そんななか、「娘が近くで暮らしているなら」とOKを出してくれた管理会社に、母はひどい物言いをしていた。 合計で2時間ほどかかって謝り続けた警察と管理会社との電話を終え、半泣き状態の私がすぐに電話したのは、母の地域の地域包括支援センターのケアマネージャーさんだった。 すると、どうやらそのケアマネージャーさんは、母の家の盗難話を何度か聞いていたらしく、 「お母さんには一度病院に行くように説得していたんです。明後日病院で検査を受けるそうですよ」 と教えてくれた。 母はどうやら娘の私に黙って病院の検査を入れていたらしい。 しかも、前回とは違う病院で検査を受けるそうだ。 私はケアマネージャーさんにお礼を告げ、私に病院のことを伝えていないことにしてほしい、と口止めをした。 その後母に連絡をし、実は認知症の検査の予約を入れていなかった母を「念のため」と説得し、再度認知症の検査を受けるよう、予約を入れたのだった。 母に認知症の診断がおりる MRI検査を受けた後、前回同様「長谷川式」の検査を受ける。 今回の母はこの質問のほとんどをきちんと答えられなかった。 認知症は1年で大きく進むのだと、実感し、痛感した。 出された検査結果は「認知症」の「初期段階」であること。 その後薬の飲み方などの指導を受け、私は母を引き連れて母の地域にある地域包括支援センターに向かった。 ケアマネージャーさんと相談するためである。 介護士の私はもちろん介護を受けるための流れは知っていた。 まず介護認定を受け、そこからケアマネージャーとともに介護プランを決める。 そのためにも、まずはいつも相談させていただいているケアマネージャーさんと話をするべきだ、と思ったのだ。 そしてもう1つ重要なことがある。 私は母と同居する気が全くなかったことだ。 ただでさえ母と一緒にいるととても疲れる。 体力が半分以上持っていかれる感じがする。 一緒にいたくなくて成人してすぐにひとり暮らしをした、あの頃の気持ちは今でも私の中にある。 認知症になったからと言って、母と同居をし、面倒を見るなんてはっきり言ってごめんだ。 だから、母にはこれからもひとりで暮らしてもらわねばならない。 認知症の初期症状ならば、きちんと処方された薬を飲み、適切なケアを受ければ、なんとかひとり暮らしを継続できるだろう。 というか、してもらわねばならない。 そのためにも、早く介護認定を受ける必要がある。 ケアマネージャーさんは病院の結果を聞くとすぐに介護認定を受けられる手続きをしてくれた。 そのあと、デイサービスの見学もさせてもらい、その日は母を送って私も家に帰ったのだった。 介護認定調査を受ける 数日後、母の家に役所から介護認定調査がやってきた。 もちろん私も同席である。 いくつかの質問を母にして家を出るとき、私は家を出て母の状態を伝えた。 このように、家族から見た本人の状態を認定員に伝えることが重要であることを私は知っていた。 初期の認知症の場合、見た目と少し話しただけだと、しっかりしているような感じがしてしまうからだ。 そして数日後、母の介護度が出た。 「要介護2」 それは想像以上に高い介護度だった。 私もケアマネージャーさんも、要支援程度であると思っていたからだ。 しかし、要支援と要介護では受けられる介護サービスが大きく異なる。 私とケアマネージャーさんはこれ幸いと、デイサービスの予定を組んでいった。 しかし、ここでもまた、母は問題を起こすのだった。   ②に続く

  • 徘徊を繰り返すAさん

    真冬の夜の23時頃、「パジャマに素足にスリッパ」という格好のおばあさんが、歩道でフラフラ歩いていた。 ぼくはコンビニに寄っておうちに帰るところだった。 一目で徘徊されていると気付いたぼくは、「どうされました?」と話しかけたが、キョトンとした表情で「別に何でもありまへん」との返答だった… 認知症のおばあさんを保護 おうちの住所、お名前、ここで何をされているかなど、ゆっくりお聞きするが、少し考え、「わかりまへん」「さぁ何でしたかいな?」といった調子が続く。 少し目を離してしまうと、フラフラと車道に出て行ってしまう危うさを感じたので、おばあさんと車道の間に立ち、笑顔で安心してもらうようにしつつ、見守りながら110番に連絡をした。 事情を説明し、はっきりとした住所は言えないものの、幸い、おうちの近くだったので場所が特定できる伝え方が出来た為、10分足らずでパトカーがやってきてくれた。 その間にもぼくが原因でおばあさんが落ち着かれなくなってしまわないように、安心して頂くよう努めた。 パジャマで素足だったので、ぼくのデカすぎるダウンジャケットを着て頂いたりもした。 穏やかに笑って「ありがとうございます」と言って下さったので、ホッとしたのを覚えている。 2人のおまわりさんに、おばあさんを保護した状況を説明すると、「ありがとうございます。あとは我々で対応しますので結構ですよ。」と言って下さったので、お任せしておうちに帰った。 念の為と、名前と連絡先も聞かれてお答えしたが、特にその後は何もなく、ぼくもこのこと自体を忘れていた… 施設にきた入所申し込み 当時のぼくは、介護老人保健施設で、『介護部の責任者』と『生活相談員』という役割を兼務していた。 介護老人保健施設、略して『老健』とは、自宅で生活ができるように高齢者がリハビリをする施設である。 何らかの理由で病院に入院されていたかたが、治療を終え、退院できる状態にまでなられたものの、自宅に帰って生活するのはまだちょっと困難な状態という場合、リハビリ目的で申し込みをされるというのが、一般的な施設の利用方法である。 そしてその申し込みは、そのかたが入院中に、ご家族が病院の『相談員さん』に”次の行き先”をご相談されて紹介してもらうというのが一般的である。 生活相談員とは、その施設の窓口的な役割を担う職種であり、上に挙げたような形で施設への入所申し込みをされたかたに対応したり、反対に、病院側に出向き、退院を控えておられるかたで、自宅に帰られるまでにリハビリが必要なかたがおられたら紹介して頂くといった営業的なこともする。 申し込みについてお問い合わせ頂いたご家族さんに施設を見学して頂いたり、必要書類の説明をしてご提出頂いたり、その書類を元にご本人とお会いしてより詳細な情報を持ち帰り、実際に施設で受け入れさせて頂くことが可能なかたであるかを、関係各部署の責任者が集まって決定する『判定会議』を実施したり、施設に入所されたかたのリハビリ状況を見て、いつご自宅に戻られるかをご家族さんと検討したり、リハビリが上手く進まずに自宅に戻れそうにないかたに、”次の行き先”をご提案させて頂いたりもする。 とまあ、前置きが長くなったが、ぼくが『老健の生活相談員』をしていた時、いつものように入所の申し込みがあった。 情報では、 認知症の女性。1ヶ月ほど前、夜に1人で家を出て、道路で転倒し頭部を打撲。意識不明で倒れているところを発見されて救急搬送。 そのまま入院となったが、入院中に認知症が進行。お身体の状態は退院可能だが、ご家族が自宅での介護に不安を感じており、一旦、入所できる施設を探しておられる。 というかたであった。 ご家族さんからお話を伺い、入所申し込みに必要な書類もご提出頂いたので、実際にその女性・Aさんにお会いする為、病院に行くことになった。 ぼくだけが覚えている再会 Aさんとの面会には、入所申し込みの際に施設にこられた長男さんの奥様と、Aさんのご主人さんが同席された。 最初に病院の相談員さんと看護師さんから、病院でのAさんのご様子をお聞きし、それからAさんご本人とご家族さんからいろいろなことをお聞かせ頂く。 Aさんは、普通にご自分でスタスタと歩いてなんでもできるといったご様子で、動作的に看護師さんが何かをお手伝いされるということはないとのことだった。 だが、なぜ自分がここにいるのか、今が何月何日なのか、どこにトイレがあるのか、どこがご自分の病室なのか、といったことが全く理解されていないので、何度も同じことを看護師さんにお聞きになられているとのことだった。 そして、夜に何度も起きて病室から出てこられるので、その都度、夜勤の看護師さんが病室まで案内して横になって頂いているとのことだった。 Aさんご本人にお話を伺うと、ご主人さんのことは当然わかっておられるし、長男さんの奥様のこともわかっておられた。 長男さんの奥様から、「おばあちゃん、ちょっと前に1人で夜中に家を出てこけて頭打ったやろ?だから入院してるんやろ?」って説明されると、「そうやったかいなぁ。全然覚えてへんわ」と笑っておられた。穏やかなかただった… 話をしている最中に、やっとぼくは思い出した。ピンと来るのが我ながら遅いと思った。 この面会の約1年前に、ぼくが夜中に偶然お見掛けして、警察に保護してもらったおばあさんが、このAさんだったのだ。 長男さんの奥様にお聞きしてみると、夜間に家を出ていき、警察に保護されたことが2回あったとのこと。 やっぱり! 確信を得たぼくは、そのうちの1回に偶然にもぼくが関わっていたということを打ち明けた。 お話を伺いながら、Aさんがなんとなく見覚えのあるお顔であったことと、申し込み書類の住所から「ひょっとして」と思ってお聞きしてみたのだ。 3回目の徘徊で転倒して、今回の入院になったそうで、今の状態で自宅に戻ってきても同じことを繰り返すリスクが高いのではないかというのが、施設に入所を申し込まれた理由であった。 Aさんは、ご主人さんと2人暮らし。 お近くの住む長男さんご夫妻が毎日のようにご高齢のお2人のご様子を見に行っておられるが、ご主人さんが気付かれないうちにAさんが徘徊されてしまったとのことで、自宅に戻ってこられるまでの間に、その対策を立てないといけないという課題があった。 施設で受け入れるも… 施設でも「夜の対応をどうするか?」という話になり、各フロアの介護主任からも、他のかたの居室に入ってトラブルになるのでは?転倒のリスクが高いのでは? という、受け入れに難色を示す意見が出たが、1人の主任さんが、「なんとか対応しますよ」と言ってくれて、入所が決まった。 ぼくはAさんを保護したことから親近感が沸き、なんとか入所して頂きたいと思っていたので、この申し出は嬉しかった。(こんなこと思うのは失格だと思うが) ご家族さんには、入所にあたっての転倒のリスクや他者とのトラブルを完全に回避できるものではないことなどをご説明させて頂き、ご了承頂いた上で入所して頂いた。 Aさんは病院から出て、見慣れない施設にやって来たことで混乱されていたが、ご主人と長男さんの奥様も一緒に来て下さったので、穏やかな状態はキープされていた。 だが、お2人が帰られてからが大変だった。 フロア内をずっとウロウロされ、「ここはどこですか?」「おうちに帰ります」と何度も居室から出てこられたそうで、その都度、ベッドまでご案内し、横にはなって下さるものの、30分も経たないうちにまた出てこられるの繰り返し。 特に何かをされるわけではないのだが、「万が一転倒されたらと思うと、ずっと付きっ切りにならざるを得ませんでした」と、疲れ切った表情の夜勤明けの職員さんから聞いた。 「お疲れさま。ほんまにありがとう」としか言えなかった。 落ち着かれて、夜間、寝て下さるようになるのか。ご家族さん側での受け入れ体制が整い、ご自宅に帰れる日がくるのか。 不安が膨らんでいったが、全く思いもよらない別の形で、Aさんはご自宅に戻ることになる… 突然のご主人さんの行動 ご主人さんが、翌日も施設に面会に来られた。そして、Aさんの手を握り、施設をお2人で出て行こうとされたのだ。 Aさんがおられるフロアのエレベーターの扉が開いた瞬間、ご主人さんとAさんがお2人で乗って1階まで降りてこられ、事務所の前を歩いていかれるのが見えた。 アレっ?と思った事務員さんがご主人さんにお声掛けすると、「今から連れて帰りますねん」と言って、施設を出ようとされたので「いや、ちょっと待って下さい!」とお止めしたが、聞く耳もたれず、激怒されたのだ。 ぼくも慌ててご主人さんをお止めしてロビーのソファに座って頂き、説明をするも、どうやら病院から退院して、自宅に帰ってくると思っておられたようであった。 長男さんの奥様に連絡を取り、電話でご主人さんとお話をして頂くと、しぶしぶ納得されたようで、お2人でAさんの居室に戻っていかれた。 長男さんの奥様とお話すると、前日の時点でご主人さんが「帰ってくるんと違うんか?」と何度も言われていたとのこと。ただ、まさかそんな行動に出るとは思ってもみなかったそう。そりゃそうである。 ご主人さんには夕方までAさんと一緒に過ごして頂き、長男さんの奥様が仕事帰りにお迎えに来られて帰っていかれた。 が、 この騒動が頻回に起こるので、長男さんご夫妻が、ついに何の対策も立てることが出来ないままにAさんの帰宅の決断を下したのだ。 退所の日 Aさんとご主人さんの嬉しそうなお顔とは対照的な、長男さんご夫妻の絶望的なお顔、「ほんとにご迷惑をおかけしました」というお言葉が忘れられない。 ぼくたち施設側の人間も、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 駐車場に止めてある車に、Aさんのお荷物を運ばせて頂いた際、長男さんがご主人に向かって「おかんになんかあったらオヤジが全部責任とれよ!」と怒鳴っておられるのが聞こえてしまった。 胸がしめつけられるような思いだった。 長男さんの奥様に、「ご主人さんも認知症がおありだと思いますので、申請して、介護サービスをお2人で受けられるようにされたほうがいいと思います。またご相談ください。」とお伝えした。 奥様は「やっぱりそうですよね」と苦笑いをされた。

  • 介護士という仕事の怖さを実感した話

    めちゃくちゃお元気だった101歳のAさん(男性)は、ぼくの不注意で転倒し、大けがをされた… ご家族さんが不在の時だけ施設に泊まりに来られる常連さん。認知症もなく、ピンと背筋を伸ばして歩く姿がカッコ良かった。 お1人でもおうちで大丈夫だろうと思われるくらいお元気だが、「念のため」ということと、ぼくを含む気ごころ知れた職員としゃべったり、ちょっとしたレクリエーションをしたりすることを楽しみに、定期的に施設に来て下さっていた。 そんなAさんが、ぼくの不注意で転倒してしまったのだ… 取り返しのつかない判断ミス ぼくが夜勤明けの早朝5:30頃、「おはようさん」と居室から出てこられたAさんは、両手にカラの湯飲みとマグカップを持って、キッチンにいるぼくに近づいてこられた。 湯飲みにお茶、マグカップに薬を飲むためのお白湯(夜のうちにつくって冷めているぶん)を希望されたので、その通りに注ぐ。 そしてそのまま、それらを両手で持って居室に戻ろうとされたので、「大丈夫ですか?」とお聞きする。すると、「いけるよ」とのお返事だった。 その時ぼくは、「Aさんなら大丈夫だろう」と軽く考えてしまった。その判断が取り返しのつかない事態を招く。 居室に戻って行かれるAさんの背中を何となく見ていたら、突然、Aさんがバランスを崩して前のめりに転倒された。 両手がふさがっていた為に受け身を取ることが出来ず、「ゴンッ!!」と床に、顔面から落ち、同時に右ヒザを強打されたのだ。 慌てて駆け寄り、「大丈夫ですか?!」とお聞きしながら身体を起こすと、「すまんすまん」との返事。アゴから血がしたたり落ち、右ヒザは少し動かすだけで顔をゆがめるほどの痛みがあった。 救急搬送 特別養護老人ホームにおいて、看護師さんが夜勤に入っている施設は少なく、この時の施設でも夜間は看護師さんが不在だった。 介護士だけで対応できない「何か」が起った時は、看護師さんに電話して状況を伝え、指示を仰ぐというルール。 そのルールに従って、他の夜勤者に看護師さんへの連絡を依頼する。ぼくはAさんのアゴの応急処置をしてから、身体をかついで車椅子に乗って頂き、居室のベッドまでお連れした。 右ヒザを動かさないように気をつけたが、響くだけでも痛いご様子だった。 連絡を受けた看護師さんは、自宅が施設からおうちが近いこともあって、かなり早く出勤してきてくれた。Aさんの状態を確認してもらうと、すぐに救急車で病院に向かうことになった。 看護師さんが119番に連絡し、救急車を手配。ほどなく施設に到着し、看護師さんの付き添いで、受け入れ先の病院まで搬送されることになった。 ぼくは「大したことありませんように」と強く願った。 看護師さんが救急車の手配をし、受け入れ先の病院が決まった段階で、ぼくからご家族さんに連絡すると、烈火のごとく激怒され、 「なんでそんなことになるんですか?!」 「ほんとにちゃんと見てくれてたんですか?!」 と、たたみかけるように質問攻めにあった。 ただただ謝るより他なかった。 その後、病院に同行した看護師さんから、Aさんは下アゴを5針縫い、右ヒザの骨折で入院することになったと連絡が入った。病院に到着したご家族さんは、看護師さんにも激怒され、罵声を浴びせられたらしい。 気のゆるみの代償 ぼくが、「Aさんなら大丈夫だろう」ではなく、「Aさんでも危険かもしれない」と判断し、飲み物を居室まで運んでいればこんなことにはならなかった… 気のゆるみ、判断の甘さで取り返しのつかないことになってしまった。ぼくは完全に自信を失った… Aさんはその後、入院生活の中で寝たきりになり、認知症を発症。退院して再び施設に泊まりに来られた際、その見違える姿にぼくは動揺を隠すことができなかった。 あの、背筋をピンと伸ばしてカッコよく歩くAさんはどこにもいなかった。 後日、Aさんを担当されていたケアマネさんから伺ったお話だと、本当はご家族さんは、Aさんを他の施設にお任せしたかったとのこと。 だが、申し込み手続きや面談など、サービス利用に至るまでに必要となる諸々をやっている時間がなく、複雑な思いながら、引き続き、ぼくのいる施設を使わざるを得なかったとのことだった。 何度かの施設ご利用後、ご自宅で肺炎を患い、帰らぬ人となってしまわれた。転倒から、たった1年後のことだった。 施設長がお通夜に行かせて頂きたいと連絡し、施設長と施設のケアマネさんが参列したが、その連絡の際、ご家族さんからぼくは名指しで「来させないでほしい」と、拒否されたとのことだった。 ぼくはどうしても行かせて頂きたかったが、参列させて頂くことで気持ちが少し楽になるのは自分だけだと思い直し、「やはり行くべきではない」と自分に言い聞かせた。 ぼくは当時、すでに介護部長という役職で、介護士の指導にあたる立場であったが、自分の不注意でこんな事故を起こしてしまった人間が、何をエラそうに他の職員の指導をできることがあるのかと考えた。 それどころか、このまま介護の仕事を続けていていいものか、それ自体を真剣に悩んでいた。 悩みながら、結論を出すことなく惰性で毎日の勤務をこなしていた。 介護士の後輩たちや、他の部署の職員さんも、 「たっつんさんじゃなくても、自分もたぶん同じ対応してたと思います」 「そこまで自分を責めなくてもいいんじゃないですか?」 と、声をかけてくれたが、誰の慰めの言葉も耳に入らなかった。 ご家族さんからのお手紙 後日、ご家族さんからぼく宛てに手紙が届く。 『たっつんさん。父は入院中、 「あの人を責めたらいかん。ワシが勝手にこけただけや」 と、何度も言ってました。 私たちの気持ちの整理がつかず、拒否してしまいましたが、たっつんさんに辛い思いをさせてしまい、申し訳ありません』 といったことが書かれてあった。 ぼくは読みながら、生まれて初めて崩れるように泣いた… ぼくは正直、Aさんが転倒されたあの日からずっと、介護士を続けるかどうか迷いながら仕事をしていた。 許されるはずもない、取り返しのつかないことをしてしまったという罪悪感で常に自分を責めていた。 そして、命をお預かりする、介護士という仕事の怖さを、ほんとに心の底から感じていた。 このお手紙は、そんな思いを浄化してくれた。 いろんな思いの入り混じった涙を、しばらく止めることができなかった。 後悔を胸に刻んだまま進んでいく ぼくはAさんから、 「介護士という仕事の怖さ」と「人を許すことの大切さ」を教わりました。 ぼくの場合は、たまたまAさんとそのご家族さんが、とてもいいかただったので救われましたが、気をゆるめてはいけない場面で気をゆるめてしまったり、判断ミスをしてしまうことで取り返しのつかないことになってしまうことがある「介護士という仕事の怖さ」を理解してもらいたい。 そして、ぼくと同じ後悔をしないようにしてほしいという思いで、後輩にはこの話を必ずしています。 人の悪口を言ったり、自分が楽をしたいという思いから業務を適当にこなすような職員さんには注意をしますが、それでもなかなか改善せずに相変わらず同じようなことを繰り返していると、さすがにイラっとします。 ですがそういう時は、Aさんから教わった「人を許すことの大切さ」を思い出し、自分の指導のしかたが間違ってたのかな?次はどういうアプローチすればいいかな?と考えられるようになりました。 ぼくはまだ完全に自分を許すことができていませんが、今でも鮮明に浮かぶAさんの笑顔とあの日の後悔を胸に刻んだまま、介護士を続けていこうと思います。

  • 転倒事故は完全には防止できない

    0時過ぎからナースコール連打のAさん(女性)が全く寝てくれない。連打の合間をぬって、他のかたの巡視に行くと、認知症のおばあさんの両足がベッドからはみ出ていた。 「トイレに行きたい」とのこと。車椅子でトイレへお連れし、便座に座って頂いたところでAさんからのコール。「はぁ~」と深いため息をついてしまった… 介護老人保健施設とは… 15年以上前の、ぼくがまだ『介護老人保健施設』のフロアの主任として現場で働いていた頃のお話。 その施設は5階建て。そのうち2~5階が入居者さんのおられるフロアで、ひとつのフロアに20名のかたが生活をされていた。 『介護老人保健施設』略して『老健』は、中間施設という位置づけで、何らかの病気やケガなどで病院に入院された高齢者の方が、治療を終えて退院可能な状態にはなられたものの、自宅に戻るのはまだ難しいという段階で入所される施設である。 つまり、自宅に帰る為のリハビリをする役割の施設ということ。もっと言うと、リハビリをすれば自宅に帰れる可能性のある方が入所されるのが基本の施設ということになる。 だが現実は… 病院から退院できる状態にはなったものの… 家族の判断として、 ➡自宅に帰ってこられても誰も介護ができる状況ではない ➡亡くなるまで生活ができる『特別養護老人ホーム』に入居申し込み ➡その入居が決まらないうちに、病院の退院期日がせまってくる ➡「とりあえず生活する場所」として入所する ➡入所しながら、特養の入居が決まるのを待つ という側面がある。 つまり、老健に入所されている方ご本人の思いとは別で、2種類の異なる「ご家族の目的」があるということになる。 そして施設としては、リハビリをしてご自宅に帰って頂くことが収益につながるというシステムがある為、本来の目的で入所してくださるかたを増やしたいのである。 苦肉の策 夜間、「トイレに行きたい」という認知症のおばあさんをトイレにお連れし、座って頂いたところで、Aさんからのナースコール。 さっきからコールボタンを何回押してこられたのかわからない。居室に伺っても、特に何の用事もなかったりもする。つまり、Aさんも認知症が進行している方なのだ。 どうすべきか迷った。本来であれば、目の前のおばあさんのトイレが終わってからAさんの居室に向かうべきだが、Aさんからコールがあったらすぐに駆けつけないと、ご自分で立ち上がり、転倒されるリスクが非常に高いのだ。 しかも、以前に転倒して頭を打たれた際、娘さんが施設に怒鳴りこんできたこともあった。だから迷った。 フロアの入居者さん20名に対し、夜勤は1名の体制。ヘルプを呼ぶにしても、他のフロアの夜勤者に来てもらわないといけない為、その夜勤者が担当するフロアがその間、誰もいない状態になるというリスクを背負うことになる。 夜勤には看護師も入っているのが老健のスタイルなので、本来であれば看護師を呼べばヘルプをお願いすることが可能なのだが、この日は、また間の悪いことに、体調の悪い入居者さんの受診に付き添いで行っており、ちょうど不在だった。 つまり、ぼくだけで何とか対応しないといけない状況だったのだ。 仕方がない… トイレに座っている方に「すぐ戻りますからそのまま座ってて下さいね」と言い残し、Aさんの居室までダッシュした… どうすれば良かったのか? 居室の扉を開けると、やはりAさんはベッドから立ち上がろうとしていた。慌てて身体を支え、転倒を防止した。その瞬間、強烈なウンチのニオイがした。 Aさんは下半身がウンチまみれだった。パジャマのズボンと紙パンツ、パンツの中に入れている尿取りパッド、肌着、かけ布団、シーツなど、至るところにウンチがついていた。 トイレに座って頂き、身体をキレイに拭かせて頂く。パンツも肌着もパジャマも変え、布団とシーツも新しいものを(あとで丁寧に整えるつもりで)簡易的に敷く。 それからAさんに、ベッドに横になって頂いた。 かなり時間がかかってしまった… 急いでトイレに座りっぱなしの方のところに戻ると、車椅子にもたれるような姿勢で尻もちをついていた。 便座の前に置いた車椅子に移ろうとしてバランスを崩した感じ。手すりで打ったのか、額が赤く膨れあがっていた… 施設から看護師に電話すると、「頭を打ってるんなら、後から何か体調の変化が起こるかも知れない」ということで、すぐに救急車を呼ぶよう指示を受けた。 指示通りに救急車を呼び、近くの病院に搬送してもらうことになった。ぼくが同行した。幸い、大事には至らず、短時間で施設に戻ってくることができた。 翌朝、この転倒事故の報告を行うと、事務長から「お前、なんで転倒させたんや?」と言われ、はらわたが煮えくり返るほどムカついた。 転倒された方のご家族は、「リハビリ目的」の方だった。 つまり、この事故で骨折などして入院したり、安静にしないといけなくなった場合、リハビリが出来なくなり、自宅に帰れない状態になってしまうかもわからなかった、ということでのご立腹だった。 そして、Aさんの娘さんは「特養待ち」を目的とされている方だった。 そんなことを考えて、転倒するかも知れないお2人のうちのお1人を優先的に対応するなんてこと、出来るわけがないし、やろうとも思わない。 事務長のまさかの発言に、ぼくは本気で退職を考えた。 こんな人の元で仕事してること自体がバカらしい。そう思った… 自分の判断は正しかったのか? 特に人手が少ない夜間帯で、複数の方からのナースコールに同時に対応しなければならず、優先順位をつけて動くものの、転倒事故を防止できなかったというような経験をしたことのある介護士さんは、めちゃくちゃ多いと思う。 優先順位をどのようにつけるかというと、やはり、「認知症の影響などで、事故が発生するリスクが1番高い方から」というのが一般的だと思うが、ぼくはこの時の判断をする際、「以前、施設にクレームを挙げてきた娘さん」のことが頭をよぎってしまった。 結果、目の前でトイレに座っている方に「ちょっと待ってて頂く」という判断をしてしまった。そう考えた時、事務長に対して腹を立てた自分に、「お前も一緒じゃないのか?」と幻滅してしまった。 何が正解だったのか、わからなくなった… それでも理解してほしい。 頭を打撲したおばあさんにはほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいで、間違った対応をしてしまった、という後悔がしばらく尾を引いたし、今でもあの場面は鮮明に思い出せてしまうほど、ぼくの心に刻まれている。 ではどうするのが正しかったのか? 老健に入所している目的や、娘さんがクレームを挙げてこられたことがあるという、余計な情報を知らなかったとして、ぼくはどのような判断をし、どのように行動しただろうか? 同じような場面でお2人ともが安全だったとして、それは「たまたま運が良かった」だけではないだろうか? そんな状況でも何とか転倒しないようにと、介護士は日々、神経をとがらせながら施設内を動きまくり、入居者さんの安全を守っている。 ご家族の方のご理解や上司の理解がなく、事故が起こってしまったことや、それが原因でケガをしたり入院せざるを得ない状況になったことなどを、全て介護士の責任とされると、ほんとにやり切れない気持ちになる。 仕事をサボったり、本来すべきことをしていなかったという「介護士の怠慢」が引き起こした事故なら責められても仕方ないと思うが、必死で安全を守ろうとしても、起こってしまう事故があるということはほんとに理解して頂きたいなと思う。 『入居者さん20名に対して夜勤者1名』の基準自体を、そろそろ現実に合ったものに変更する時期なんじゃないかと、本気で思う。

  • やんちゃな愛されキャラ

    認知症がひどくて、でもめっちゃ元気なAさん(女性)は、入居してからずっと「やんちゃ」を繰り返してた。 和室の畳をひっぺ返す。ウンチでカーテンをドロドロにする。造花を食べる。他の入居者さんのベッドに入ってケンカになる。全裸でリビングに出てくる。 「あぁもう!」といつも職員は振り回されていたが… 信じられない写真 ぼくがその施設に「介護部長」という管理職として就任した時、ある職員さんに信じられないような写真があるから見てほしいと言われて、見せられた写真には、小柄だがちょっとがっちりした体型のおばあさんが笑顔で立っている姿と、おばあさんの前に畳がひっくり返っているのが写っていた。 「これ、このAさんがご自分で(畳を)めくってひっくり返したんですよ」 と、笑いながらその職員さんは教えてくれた。 ぼくは、にわかに信じられなかった。素手で畳と畳の間に指を突っ込んで持ち上げてめくり、ひっくり返すというのは、ぼくのような身体の大きい男性でも結構、大変な作業だ。 それをここに写っているおばあさんがされたなんて。 「しかも、娘さんがこのAさんの面会に来られた時に、居室に入ったらこの状態だったってことで、笑いながら撮影した写真なんですよ」 さらに驚いた。 娘さん、ちょっとふざけすぎてやしないか。 この写真1枚で、一気にAさん親子に興味津々になったぼくは、早く娘さんが面会に来て下さらないかなと思っちゃっていた。 ただ、まだ施設の入居者さんのお一人お一人のお顔と名前も一致していない段階だったので、まずはAさんのことを詳しく知ることから始めようと思った。 常にやんちゃが炸裂するAさん Aさんは80代後半。身体は健康そのもので、ご自分でスタスタとハイスピードで歩かれる。立ったり座ったり、何なら床に寝そべったりも自由自在。 ただ、重度の認知症だった。 今がいつなのか、ここがどこなのか、目の前にいる人が誰なのか、何をすべきなのか、どうすればいいのか…あらゆることを認識できないがために、ご自分の置かれている状況が理解できず、正しい判断と正しい行動ができなくなっておられたのだ。 その結果、和室の畳をひっぺ返したり、手についたウンチをカーテンで拭いてドロドロにしたり、飾ってある造花を食べたり、他の入居者さんのベッドに入ってめちゃくちゃ怒鳴られてケンカになったり、全裸でいきなりリビングに出てこられたりと、まぁ「やんちゃ」の限りを尽くしていた。 はっきり言って、手についたウンチや、カーテンのウンチを洗うのなんてかなりめんどくさいし、手の届くところに造花などいろんなものを飾れなくなるし、他の方の居室に入ろうとされたらAさんを止めないといけないけど、歩くのが早すぎて、ちょっと目を離した瞬間におられなくなっていることなんてザラにあるし、全裸で出てこられたら、何をしてても最優先でAさんを居室にお連れして服を着て頂かないといけないし… つまり、誰よりも手がかかり、職員の手間を増やしてくれる方がAさんなのだ。 そして、そんなAさんなのに、なぜか人気があるのだ。 やんちゃが見つかって「あぁもう!」って言われてる時のAさんは、”してやったり”みたいにして笑ってる。 そして「ほら!またぁ!」って言いながら、やんちゃの後始末をする職員もやっぱり笑ってて、次は何してくれるんやろって密かに期待すらしてる感じだった。 娘さん登場 ある日、娘さんが面会に来られた。 ぼくはお会いしたことがなかったので挨拶させて頂くと、 「あぁ新しい部長さん、母がいつもお世話になってます!よろしくお願いします!変わった髪型してはりますね!ハハハハハ!」 みたいな感じで、初対面でいきなりぼくのマッシュルームカットをイジッてこられた。 サバサバして明るくて豪快な感じ。 一瞬で娘さんのキャラクターがわかった気がした。 と思ったらいきなり、 「もう!お母さん。しっかりしいや!」 と笑いながらAさんのお尻をポンッと叩いた。叩かれたAさんのほうもニコニコ笑ってた。 ぼくはこの親子のことが好きになった。 Aさんのアゴのヒゲ 施設には「バス旅行」や「秋祭り」といった、ご家族のみなさんも一緒に参加して頂ける大きなイベントがいくつかあり、娘さんは必ず参加して下さっていた。 ぼくはそういったイベントの統括指揮を取ることが多かったので、娘さんともお話させて頂く機会が増えていった。 Aさんと手をつなぎながらも悪態をつき、職員をねぎらい、いつも笑顔でイベントを楽しんでくださる娘さん。 娘さんがおられることで、イベント中は、やんちゃをされずにただひたすら笑顔のAさん。 ほんとに素敵なお2人だなって思って見ていた。 Aさんにはひとつの特徴があった。 アゴの左側に大きなイボがあり、そこから長~い一本のヒゲが常に生えているのだ。まるで「波平さん」みたいに。 長くなってきたら職員のほうで切ろうとするが、それはなぜか拒否されるAさん。 だが一ヶ月に一回、娘さんがお連れする美容室から戻られると、キレイに無くなっているのだ。 美容室でならOKなんやって思いつつ、でもAさんらしいなって思っていた。 Aさんとのお別れの時 そんなAさんでも高齢には抗えなかった。 いつの頃からか、少しずつ食事を食べなくなり、日中も寝ていることが多くなり、足元に力が入らなくなり、車椅子やオムツが必要になっていった。 面会のたびに、 「お母さん、しっかりせなあかんで!」 と声をかけておられた娘さんだったが、じょじょに弱っていかれるAさんを感じながら、施設での最期を希望された。 職員はお元気だった頃からのAさんの写真を厳選して、アルバム作りをし始めた。Aさんの居室に置いて、娘さんがいつでも見れるようにとのことだった。 どの写真にもいい笑顔で写るAさんがいた。 日に日に弱っていくAさんを前に、ある女性職員が言った言葉、 「何してくれてもいいから、また元気になってよ…」 は、みんなの気持ちを代弁していた。 その女性職員の言葉を聞き、Aさんの数々のやんちゃを思い出しては、思わず吹き出してしまうこともあった。 それからほどなく、Aさんは息を引き取られた。いよいよの時点で施設に泊まり込まれていた娘さんと、たくさんの職員に見守られながらの最期だった。 Dr.の死亡確認後、その場にいる誰もがこらえ切れずに涙する中、娘さんは、「お母さんお疲れ」と笑いながら、顔を両手で覆うようにして語りかけ、次の瞬間…イボのヒゲを、「ブチッ!」っと引っこ抜いたのだ。 時が一瞬止まった後、みんなが一斉に大爆笑。その場が一気にほぐれた。 葬儀屋さんがお迎えに来られた。お見送りの為に、たくさんの職員が施設の玄関まで降りた。 娘さんは、施設長やケアマネジャー、相談員、看護師など1人ずつに挨拶をして回られ、Aさんのフロアの介護職員にも笑顔で1人ずつ声を掛けて下さった。 介護職員はまた全員が泣いていた。 娘さんは、一番最後にぼくに声を掛けて下さった。 笑顔で「部長さん、ありがとうね。ここでお世話になって私たちほんまに幸せやわ」と言って下さった。 ぼくはまた、Aさんのやんちゃの数々、娘さんとAさんとのやり取りの数々、さきほどの「ヒゲ抜き」を思い出し、泣きながら笑った… 娘さんが遺影に使う為にと、施設で撮った中から選んだ写真のAさんは、やんちゃしてる時の無邪気な笑顔の、ヒゲのあるAさんでした。 あんな最期のお別れは、これまでもこれからも、きっとないんだろうなと、ぼくの心に強烈に刻まれています。 Aさんと娘さんからは、ほんとに多くの大切なものを頂いたような気がしています。 忘れがたい、10年前のお話です。

  • ウンチを渡そうとしてくるAさん

    認知症のAさん(男性)は、夜中にウンチを渡そうとしてくる。職員が手袋をしてウンチを取ろうとするとご立腹。 「無理やり手を洗わせて頂くんですけど、めっちゃ抵抗されるんです」とみんな途方に暮れていた。 状況がよくわからんので、ぼくが夜勤に入ってみる。が、初日は空振り。後日迎えた2回目… 1スタッフとして現場に入るまでの準備と心構え 普段は介護部の責任者として、事務的な仕事がほとんどのぼくは、実際に1スタッフとして現場に入るのは稀なことである。 人員不足などでヘルプせざるを得ない時には、事前に担当するところの入居者さんの情報や、業務の流れなどを確認するようにしている。 情報さえきっちりと教えてもらっておけば、いろいろなお手伝いなどは経験があるのでどうにかなるのだが、逆に情報がないと何をすればいいのかわからない状態になる為、はっきり言うと使い物にならないのだ。 責任者として、後輩から「使い物にならない」というレッテルを貼られると、その後、言葉に説得力を持たせることが出来なくなる為、何としても避けたいところ。 この時も、夜勤に入ってみると決めてから準備を入念にして臨んだ。だが、初日はAさんの「ウンチを渡してくる行為」はなく、空振りに終わった。 それが良かった。久しぶりの夜勤の感覚を掴むことが出来たし、入居者さんの夜のご様子を知ることが出来た。業務の流れも把握した。 Aさんに対して、「今日こそは来てくれないかな」という気持ちで2回目の夜勤を迎えられたのは、気持ちの余裕を持てたという点で、とても良かった。 そしてその時は訪れた このエピソード当時の夜勤の勤務時間は、夕方の17:00~翌朝の10:00まで。 夕食前から業務に入り、夕食、歯磨き、トイレ(オムツ交換)、就寝の準備、寝る前のお薬、就寝という感じで、だいたい22:00頃までには、入居者さんのみなさんは、眠りにつかれる。 情報によると、Aさんが例の行動をされるのは、夜中の2:00頃が多いとのこと。 とりあえずAさんが動かれるより前に、夜勤中にすべき雑務を終わらせていく。このあたりは、1回目に夜勤に入ったことで、スムーズにこなすことができた。 一方、なかなかAさんは起きてこられず、2:00にみなさんの居室を巡視した際にもよく眠っておられた。 「今日も空振りかな」と思っていたが… 夜中の4:00頃、廊下の向こうに人影が見えた。 右半身麻痺の為、右足を引きずって歩くシルエットは間違いなくAさん。じょじょにこちらに近づいて来られる。 左手が上に向いているのがわかる。その上に何かを乗せておられるのもわかる。 目の前まで来られるにつれ、乗っていた黒い物体が確認できた。まぎれもなくウンチだった。 それを、受け取れといわんばかりに「っん!っん!」と、ぼくに差し出してこられる。 「ほんまや!何で?」「何でこんなことされるんやろう?」 行動のヒントは居室にあった Aさんは、認知症からくる失語症でしゃべれない。なので、この行動がどういう意味なのかお聞き出来ないし、言葉から推測することも出来ないのだ。 手のひらにウンチが乗っているので、すぐに取って手を洗ってさしあげたいのだが、手袋をして受け取ろうとすると、事前の情報通り、やっぱり「うーーん!!」といって怒って取らせて頂けない。 「うーん、どういうことやろ?どういう意味があるんやろ?」と思いつつ、廊下でAさんとのやり取りをしていると、他の入居者さんにご迷惑をおかけしまうおそれがあるので、なんとなくAさんを居室にお連れすることにした。 「居室に何かヒントはないんかな?」とも思いつつ… 灯りをつけて居室の中を見渡すと、観音開きの扉が開いたり、ロウソクを立てる受け皿?が倒れていたりと、お仏壇が乱れているような気がした。 さっきまで(の巡視で)そんな感じやったかな?なんか普通やったような… 念のため、Aさんの顔を見て「お仏壇ですか?」と聞くと、ウンウンとうなずかれた。 やっぱりそうか… でも何? お仏壇が何かあるんかな?… !!! 考えて考えてようやく気付く。念のため、お声掛けさせて頂く。ウンチを指して「お供えってことですか?」 すると、ウンウンとこれまでになくうなずかれた。 やっぱそういうことやったんや! ついテンションが上がり、「わっかりました!」と言って、手袋で受け取ろうとすると、やっぱりご立腹で渡して下さらない。 マジか…素手じゃないとダメってこと? 「大事なお供え物を汚いもの扱いして、手袋で触ろうとするなんて!」っていう感じなのかな? 汚いもの扱いとか、手袋の意味とかは理解されるんや。 なんて思いつつ、覚悟を決めて手袋を外し、Aさんの前にぼくは左手を差し出した。 すると、Aさんはウンチを渡して下さった。 若干、罰当たりな気持ちになったが、そのウンチをお仏壇の前に供えるように置いた。 それを見たAさんは笑顔になられた。 「手を洗いましょうか?」とお聞きして洗面台にお連れすると、すんなり手を洗わせて頂けた。それからベッドにご案内し、横になって頂くとほどなくお休みになられた。 原因を取り除くことで理解できない行動が消えた 夜勤明けでフロアの職員に聞くと、「そういえばお仏壇が乱れてることありました」と数人が気付いていたことがわかった。 だが、ウンチを渡してくる行為とは結び付かず、誰もがあまり気にせずに扉を閉めたりして、整えていたとのことだった。 Aさんのご家族は、Aさんが施設に入居されてからほとんど面会に来られていなかった。当然、差し入れなどもないので、お供え物も入居時以来、何もなかった。 Aさんは失語症である為、普段からどのようなことを思って施設で生活をされているのかが掴めていなかった。 しかも、ちょっとしたことでご立腹なさる性格のかたでもあったので、お仏壇にはあまり触ってはいけないという思いがみんなの中にあったのだ。 ウンチを渡そうとされる行為が現れてきた時も、何故そういう行為をされているのかが、誰も想像できなかった。 その日から、職員がお仏壇のお世話をさせて頂き、施設のおやつの余りなどをお供えすることで、ウンチを渡そうとしてくる行動はなくなった。 改めて、認知症のかたの行動には意味があり、その原因を取り除くことで不可解な行動は消失するんだということを実感した。 そして、その原因を解き明かすヒントは、そのかたの微妙な表情の変化や、生活環境などにひそんでいることがあるというのも学べた事例でもあった。 Aさんへの対応がうまくいき、翌朝、フロアのみんなに報告した時の「部長もなかなかやるやん」って感じが忘れられない。 介護という仕事が楽しいって思えた、14年ほど前のエピソードでした。 Aさんのその後 失語症ということに加え、ご自分から何かを訴えてこられるということが、このウンチを渡してこられるという行動以外になかったAさん。 そしてちょっとしたことで「うーーん!」とご立腹なさるので、施設入居以来、職員みんながどのように接するべきか戸惑っていた。 食事やトイレ、入浴のお声掛けなどには、すんなり応じて下さるので、ケアに困るということはなかったが、普段からのコミュニケーションという点で難しさを感じていた。 この一件がきっかけで、こちらから質問をさせて頂き、ウンウンと頷かれると正解、「うーーん!」とご立腹なさると不正解というコミュニケーションに、みんなが慣れていった。 怒りはあらわにされても、だからって暴力とかそういった行動をされる方ではない、ということがわかったのだ。 適度な距離感が掴め、コミュニケーションも取れるようになったことで、Aさんは「笑顔のとっても素敵な優しいおじいちゃん」として職員みんなから愛される存在になられた。