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  • 介護職員の夜勤のこと〜たっつんのほっこり介護日記〜

    夜勤の日の朝は、いつもよりのんびりできる。仕事とは言っても、22時からの開始だからだ。 ただし、普通の休日とも違う。夜勤開始まで、徹夜で働くのに備えて身体を極力休めておく必要があるからだ。 というわけで、どこかに出かけるようなことはせず、できるだけ昼寝の時間を確保のに専念することになる… 夜勤開始までのこと ただ、会議中なんかはすぐに眠くなるのに対して、いざがっつり昼寝しようと思うと、これがなかなかできないのだ。 外が明るいし、家族がいる場合もある。ついつい本を読んだり、Youtubeを見てしまったりする間に時間はどんどん過ぎ、気付いたら15時みたいなことがよくある。 そして慌てて目を閉じる。 それでもなかなか寝つけずに、寝れたと思ったら18時には目が覚める。結局、よく寝れて2時間みたいな感じになることも多いのだ。 22時には勤務を開始することになるので、最低でも10分前にはフロアで遅出勤務の職員さんから、その日の情報の「申し送り」を受けたい。 そこから逆算して、晩ご飯を食べ、お風呂に入り、洗濯物をたたむくらいは終わらせた上で、その他もろもろの支度をするということの時間配分を決めてやっていく。 で、おうちを出発し、施設に向かう。 夜勤前のおうちでの過ごし方で、どれだけHPを温存した上で夜勤に臨めるかが変わってくるので、かなり重要であると捉えている。 夜勤開始から0時まで 施設に到着するまでの道中も、「夜勤しんどいなぁ。めんどくさいなぁ。なんとか誰かと代わってもらえないかなぁ。」なんて考えている。 そんな願いもむなしく施設が見えてくる。玄関から入り、自分のロッカーで制服に着替えた段階で諦めがつき、「よしっ、朝まで頑張るしかないな」みたいな感じで覚悟が決まる。 タイムカードを押し、自分が勤務するフロアへ。廊下はうす暗く、入居者のみなさんの姿は見えない。22時までの勤務の職員さんが、夜のご様子について記録をつけている。 詰所(そのフロアの事務所のようなところ)に入り、業務連絡が書いてある「申し送りノート」に目を通す。それから遅出の職員さんに、その日一日の入居者さんのご様子を聞く。 体調の悪いかた、いつもと違うご様子のかた、ショートステイ(数日だけ施設に泊まりに来られること)のかた。夜間、特に注意してご様子を見させて頂くべきかたの情報をメモりつつ、頭に入れる。 申し送りが終わり、22時が過ぎると遅出の職員さんは勤務を終えて帰っていく。フロアには自分も含めた夜勤者だけになる。 夜勤者同士で声を掛け合い、「何かあればお願いします」という感じで協力体制を確認して持ち場につく。 自分が担当するエリアの入居者さんのご様子をお一人ずつ確認して回る(巡視)。 22時過ぎの時点でほとんどのかたがすでに寝ておられるが、たまにテレビを見たりして起きておられるかたもいる。体調不良のかたは特に注意してご様子を確認する。 朝まで何事もないことを願いつつ、1回目の巡視を終える。 お一人お一人が一日に使用するオムツを用意して各居室に配って回ったり、食事用のエプロンを干したり、洗濯物をたたんだりといった雑務をしているとすぐに時間が経過する。 夜勤中のメインの仕事は、ご用のあるかたが押して知らせて下さるナースコールに対応すること、巡視、オムツ交換、ご自身で身体を自由に動かすことの出来ないかたの身体の向きを変えさせて頂くこと(体位交換)である。 巡視は2時間ごと、そのタイミングでオムツ交換の必要なかた、体位交換の必要なかたにそれぞれ対応する。 オムツ交換は、お一人お一人の体格やオシッコの量、出るタイミングなどを考慮して、適切なサイズ・吸収量のオムツを選び、適切な時間帯での交換を決めていく。 なので、巡視ごとにオムツ交換をさせて頂くかたは一律ではないし、お一人お一人に、より適した交換のタイミングがわかってくるので常に変化する。 夜間帯に1回しか交換しないかたもいれば、3回交換するというかたもいる。 一方、体位交換については、2時間ごとに身体の向きを変えないと、同じ部位に体重による圧力がかかり続けることになり、褥瘡(じょくそう)=床ずれが発生する原因となってしまう。 この為、巡視ごとに必要なかた全員に体位交換をさせて頂くことになる。 簡単に表現すると、 22時:全入居者さん(20名)の巡視 オムツ交換5名 体位交換8名 0時:20名の巡視 オムツ交換6名 体位交換8名 2時:20名の巡視 オムツ交換5名 体位交換8名 4時:20名の巡視 オムツ交換4名 体位交換8名 6時:20名の巡視 オムツ交換6名 体位交換8名   といった感じ。オムツ交換の人数が時間ごとに変わる。 ただオムツ交換に関しては、ナースコールで「出たから交換して」と自ら言われて交換させて頂いたり、居室に入った瞬間にウンチのニオイがしているので、交換のタイミングじゃないけど交換させて頂いたり、というイレギュラーに常に対応するので、決められた通りだけで済むことはほぼない。 というわけで、0時の巡視に回る。この巡視が終わる頃にはみなさんが深く眠りにつかれ、フロアがより静かになっていく感じを受ける。 0時~4時まで フロアで勤務している夜勤者は施設の入居者さんの人数によって違いがあるが、だいたいこの時間帯に、順に声を掛け合って休憩することが多い。 自分の担当するエリアに加えて、休憩中の夜勤者が担当するエリアのナースコールにも対応する。1時間ほどの休憩をそうやって回す。 ちょうど2時のタイミングで休憩に入る夜勤者が担当するエリアの巡視と体位交換は、休憩していない夜勤者が担い、オムツ交換だけは休憩後の職員がちょっと時間をズラして回ることになる。 穏やかな夜は、ほんとにただただ静まり返り、待機しながら普段できない書類の整理をしたりする時間を確保出来たりもする。 だが、ナースコールを何度も押してこられるかたや、落ち着かれずに何度もベッドから立ちあがって転倒のリスクが高いかた、大きな独り言をずっとしゃべっておられるかたなど、認知症からくるそういった症状が出るのもこの時間が多い。 なんとか落ち着いて寝て頂くような関わりをするが、なかなか落ち着いて下さらず、結局、朝まで対応が必要な場合もある。 ”その日”に当たってしまったらほんとにヘトヘトになってしまうが、こればかりは誰にも読めない。 夜勤者全員の休憩が終わると、再びそれぞれ担当するエリアだけの業務に集中する。 4時~6時 各自、休憩を終えて4時の巡視に回る。 休憩を取ったにも関わらず、この巡視が終わってからの時間帯が、ぼくは一番睡魔に襲われる。「もうすぐ夜が明ける」という安心感からくるのかも知れない。 「眠いなぁ」と言いながら、朝の準備を始める。 食事用のエプロンの用意、顔拭きタオルの用意、お茶ゼリー(飲み込む力が弱いかた用の水分として)をタッパーからマグカップに取り分ける、朝食後の歯磨きの為の歯ブラシとコップの準備、ゴミの回収と新しいゴミ袋の設置、夜間帯のお一人お一人のご様子を記録に残すなどなど。 6時以降~ 6時になると、ボチボチ起きてこられるかたがおられる。 ナースコールを押して「起こしてくれる?」と呼ばれるのでそのかたの居室に行き、朝の支度をお手伝いさせて頂く。 これまでの生活習慣から、目覚められるかたはだいたい順番まで決まってくる。 夜勤者もその順番を把握していて、まずはAさん、次にBさんという感じで居室に伺い、起きられるかどうかをお聞きする。 「まだ寝とくわ」という場合は「また後で来ますね」とお答えし、「もう起きるわ」という場合にそのお手伝い。 お一人目のかたがリビングに出てこられたタイミングで照明をつけ、カーテンを開ける。テレビを付けさせて頂き、お湯で温めた顔拭きタオルをお渡しする。 起きると希望されたかたに起きてリビングに出てきて頂いたあとは、そのかたがたの体温と血中酸素濃度(血液に含まれる酸素量)を測定し、体調の確認をする。 当日が入浴の日に当たっている場合は、血圧と脈拍も同時に測る。 そうこうしていると7時前になり、早出の職員さんが出勤してくる。その姿を見ると心底ホッとする。 早出の職員さんに夜間の入居者さんのご様子を伝え、まだしていない記録をして、夜勤の業務が終わる。 夜勤明け 夜勤に入る前はほんとに毎回、「しんどいなぁ」「めんどくさいなぁ」と嫌な気持ちになるのに、夜勤明けの「あぁ終わった~」という開放感はめっちゃ好き。 帰りには、自分へのご褒美として朝マックに寄ってしまうことも多いし、おうちに帰ってからダラダラ過ごすのも最高に気持ちいい。 夜勤について 夜勤は怖い。 特に体調不良のかたがおられたり、いつ亡くなられてもおかしくないような状態で「施設での看取り」を希望されているかたがおられると、「何かあったらどうしよう」という気持ちになる。 介護士を18年やっているが、その感覚に慣れることはない。だからこそ、何事もなく朝を迎えられた時の安心感が半端ないのかも知れない。 今日もまた、全国で夜勤に入っている介護士さんがたくさんいると思うと、勝手に仲間意識が芽生えてくる。

  • コロナがほんとにキツかった件

    まるで戦場です。1週間のコロナ療養中も報告は受けていた。 が、まさかこれほどとは…山積みの感染防護具、廃棄用ゴミ箱、消毒液。フロアに誰もいない。 陽性者だらけでみなさん居室隔離。職員1人にかかる負担がヒドい。「熱あります!」「検査して!」「陽性でした!」が当たり前。 終わりの見えないトンネルに閉じ込められた気分だった… 兆しは突然に現れた… 施設職員の徹底した感染対策のおかげで、周りの施設の入居者さんがコロナに発症したという情報を何度となく聞きながら、ぼくの勤務する施設ではほとんど発症者を出すことなく平和だった。 だがやはり、完全に防止することは不可能だった。 2023年の1月。 職員2名が同時にコロナに発症し、その2名が勤務するフロアで、ついに入居者さんの中から感染者が出てしまったのである。 施設はわりと年季が入っていて、個室もあるが全室ではない。 もともとは4人部屋だったところを建具で仕切って個室のようにしているという造りのお部屋もあって、建具は天井に「つっぱり棒のデカいやつ」のような感覚で固定されている為、部屋の天井に近い部分はツーツーになっている。 発症されたかたはその4人部屋のかただった。その造りが災いし、発症した1名のかたと同室の3名のかたが『濃厚接触者扱い』になった。 『感染者』は、たまたま空いていた個室に移動して頂き、個別対応。同室ということで『濃厚接触者』になられたかた3名をそのままのお部屋で見させて頂く。 お昼間は職員がまだ多く出勤している為、感染者・濃厚接触者の対応をしてもどうにか業務が成立するが、問題は夜間帯。 夜勤者が1名で対応するのがかなりの負担になる。 感染対応をしているかたのお手伝いをする際には、感染防護具(マスク・フェイスシールド・ガウン・手袋・キャップ)を着て脱いで、また別のかたの対応で着て脱いで、を延々繰り返すことになる。 その方以外にも、普通に生活をしておられる入居者さんの対応も当然あるので、まぁようするにいつもの夜勤よりもかなりのキツさなのだ。 そこで、『感染者』と『濃厚接触者』のかたのみの対応をする、”+1名の夜勤者”をシフトに組み込むことになった。 その分、日勤者が少なくなるのは言うまでもないので、普段はシフトに1人としてカウントされていないぼくも夜勤に入ることにした。 初めて入居者さんから感染者が出て2日目、濃厚接触者のかたのうち2名が高熱を出し、検査の結果は陽性。感染者が3名になった。 濃厚接触者の残る1名は終日寝たきりで他のかたとの接触がほぼないことからお部屋の移動はせずにそのままのお部屋にいて頂くことになった。 2日目にして感染者3名・濃厚接触者1名の対応を引き続き行う。 次の日。フロアの職員から新たに陽性者1名。 さらに次の日。 職員1名、また別の居室の入居者さん1名が陽性。 この日も夜勤に入る。 そして次の日の夜勤明けで、ぼくは寒気を覚えた… 一番大変なタイミングで療養生活に… おうちに帰り、熱を測ると37.6℃。これはマズい。 すぐに調べて医療用の抗原検査キットを販売している最寄りのドラッグストアへ走る。ヒヤヒヤしながら検査をするとマイナス。 「よかった~」と思いつつもしんどいので、とりあえず昼寝。 そして… 夕方に起きたら39.6℃まで上がっていた。 すぐに施設へ連絡し、看護部長に状況を伝えると、『みなし陽性』ということで『感染者』と同じ扱いで、仕事を休むよう指示を受けた。 気分は最悪だった。 身体のしんどさとかより、めちゃくちゃ大変な時に介護部の責任者として現場に立てないことのツラさに押しつぶされそうになった。 だが、きっと感染しているであろう状態で出勤して、感染拡大させるわけにもいかない。「仕方ないことなんだ」と自分に言い聞かせた。 家族にも伝え、家庭内隔離をしてもらうことにした。ここでは施設での経験が大いに役立った。 結局、翌日の再検査で陽性が判明した。 陽性が確定することで、ホテル療養を申し込むことが出来た。 息子が大学受験、娘が高校受験の大詰めを迎えていたので、家にぼくがいて感染させるわけにはいかない。 そして翌日から1週間、ホテルでの療養生活がスタートした。 ホテル療養中にも、感染は拡大の一途をたどる ぼくの病状はホテルに行ってから5日目くらいまで微熱が続いていたが、寝込んでしまうほどのしんどさではなく、本を読んだり、パソコンしたり、テレビやYoutubeを見たりする余裕があり、むしろ快適だった。 そんな中で、施設で頑張ってくれているフロア主任と定期的に連絡を取っていた。その内容は悲惨なものだった。 毎日のように入居者さんの感染者が増えていき、それに伴い、同室のかたの濃厚接触者もまた増えていく。 対応してくれている職員もじょじょに感染していき、他フロアや、法人内の他施設から何名かヘルプに来てもらってなんとか業務をこなしているといった状況であった。 なかなか終息のメドが立たない状況で、それでも介護・看護が力を合わせて対応してくれている。 その中に自分がいないことの情けなさ。 この時ほど、自分の非力さを呪ったことはなかった。 ぼくが復帰するまで、なんとか耐えてほしい。復帰したら思いっきり働くからなんとか!という祈るような気持ちだった。 そして1週間… 復帰したぼくを待っていたのは、想像を超える現場の惨状であった。 それでも終わりはくる まるで戦場だった。 報告は受けていたが、まさかこれほどとは思ってもみなかった。 山積みの感染防護具、廃棄用ゴミ箱、消毒液。フロアに誰もいない。陽性者だらけでみなさん居室隔離。職員1人にかかる負担がヒドい。 「熱あります!」「検査して!」「陽性でした!」が当たり前。終わりの見えないトンネルに閉じ込められた気分だった… 主任はぼくの顔を見て安心したのか、ぼくが復帰した翌日に陽性になり、バトンタッチで休むことになった。あとはぼくが主任に代わってなんとか凌いでみせる番だった。 とりあえず、どの入居者さんがいつ感染対応解除になるのか、どの職員が自宅療養を終えて出勤できるのかを、1つずつ整理していきつつ、これ以上の拡大を防止すれば『あと〇日で完全に終息する』というのを明確にし、そこを目指して対応の徹底を改めて確認し合った。 入居者さんにしろ、職員にしろ、「熱がある」と聞くだけで「ビクッ」としてしまう。それでも「いや違う違う」と言い聞かす。 そんな気休めみたいなことばかり考えつつ、目の前の業務をひたすらこなしていると、なんとかピークが過ぎ、新たな陽性者が出ないという状況になってきた。自宅療養していた職員も少しづつ戻ってきた。 えらいもので、『感染者』や『濃厚接触者』の感染対策がみんなカンペキにできるようになっていった。通常の業務よりもいくつもやるべきことが増えたが、それすらも普通にこなせるようになってきた。 じょじょに入居者さんの対応が解けていく。職員の人数が元に戻っていく。 長かったトンネルの終わりが見えてくる。 そしてついに… 最初の感染者が出てから約1ヶ月半ほどで、感染の対応が必要なかたがゼロになった。 ほんとに長かったし、終わりが見えなかった。 ぼく自身も途中、離脱してしまって悔しい思いもした。それでも終わりがきたのである。 感染対応の物品を最後に撤収させた時、両手を広げて「終わったー!」と言ってしまった。 みんなも同じ気持ちだったように思う。 ほんとに過酷だった。それでも終わるんだなって思った。 これからも感染症と付き合っていかなければならない 振り返ってみると、職員がコロナに発症してしまったことは仕方がないし、そこから入居者さんが感染したことも防止できなかったと思う。 だが、施設内で感染が拡大してしまったのは、出来ていると思っていた対応が正確にきっちりと出来ていなかった事が原因ではないかと思う。 感染防護具の着脱や感染ゴミの扱い方など、最初からカンペキだったかと言われると、ぼく自身もはっきり言って自信がない。 今回のコロナクラスターの経験はとても厳しいものだったが、これで終わりではない。 コロナが2023年5月より『5類』という分類になり、これまでのような規制が緩和される。 だが、コロナがなくなるわけではないし、まだ見ぬ未知のウィルスが新たに発生するかも知れない。それでもぼくたちはそれらと共存していかないといけない。 その為にも正しい知識で適切に対応することがいかに大事かということを、今回の経験からは学んだ。 それにしてもキツかったぁ~!

  • 入浴拒否のYさんの心がゆるんだ話

    1ヶ月間、お風呂に入ってくれないYさんは、認知症の全くないおばあちゃん。「前におった施設でめっちゃ怖かってん」とのこと。 毎日お風呂にお誘いするが「やめとくわ」と拒否される。夜、パジャマに着替える時に、ちょこっと身体を拭かせて下さる程度。 どんな怖い思いをしたの?には「・・・」と無言になり、答えて下さらなかった… 入浴拒否の原因がつかめない 認知症が全くなくて普通に日常の会話が成立するYさん。 車椅子をご自分の足で漕いでフロア内を自由に動かれたり、手先が器用で洗濯物たたみなどのお手伝いを自ら職員に声をかけてして下さるくらい、しっかりされたかただった。 入居してから1ヶ月、周りの入居者さんとはあまり馴染もうとされなかったが、職員とはすぐに馴染んで仲良くなられた。 Yさんは手すりを掴んで立つことも出来るが、膝に力が入らずに数十秒で膝折れしてしまうので、トイレのお手伝いが必要だった。 だが、男性職員でもその介助はさせて頂けていたので、入浴を拒否されるのは「恥ずかしさ」ではないのはわかっていた。 つまり、ご本人がおっしゃるように、ほんとに「前にいた施設で怖い思い」をされたのだと思う。 入居されて以来1ヶ月間、誰がいつお声掛けさせて頂いても、入浴だけは絶対にして下さらなかった… 各部署の職員が集まってカンファレンスを開き、どうすれば入浴して下さるのかを話し合ったが、いい答えは出てこなかった。 突破口をこじ開けた、ある女性職員の行動 そんな状況の中、Yさんが特に心を許してる女性職員が、突然なにを思ったのか、洗面器にお湯を入れてYさんの居室に入って行った。 「お風呂に入るのが怖いのはわかりました。でもちょっと手をつけるだけです。やってみませんか?」Yさんはこの提案を受けてくれた。 女性職員はお湯の中でYさんの手のひらを優しくマッサージしたそうで、そのことを「すごく気持ちよかった」と喜んでおられた。 洗面器での『手浴』を何度かされた後、その流れで、次にその女性職員は『足浴』(洗面器でする足湯のようなもの)を提案。Yさんは「あんたがやってくれるんなら」と快諾された。 足浴も気持ちよかったらしく、「これええわ~」と大きな声で喜ばれた。手浴も足浴も2人きりの時間。何度も繰り返し行うことで、Yさんと女性職員の関係性がどんどんできあがっていく… そうこうしていると、突然、「シャワーやったらしてもええかな」とYさんからの申し出があったとのこと。 「もちろんあんたがやってな」とのオーダーだった。 女性職員はものすごい勢いで「部長!聞いて下さい!」と、報告に来てくれた。その時の嬉しそうな表情が忘れられない。 入居されて以来、入浴を拒否され続けてきたYさんがお風呂に入られる。 このことは施設全体の大きなニュースになった。 ただし、いろんな人が声をかけることでご本人の気持ちが変わってしまったらよくないので、全部署の責任者が集まり、Yさんにその話をしないということを全職員に統一することで意見を一致させた。 というわけで、Yさんとの話は女性職員だけが窓口になることになった。 Yさん入浴大作戦 女性職員が事前にお聞きしていた、Yさんの希望される入浴の時間は朝一番。「他の人の入った後の、濡れたお風呂場に入りたくない」とのこと。 他の入居者さんには申し訳ないが、その日はYさん以外のかたの入浴を午後からにして頂くことにした。 どのくらい時間がかかるかわからないので、2人が焦らず、ゆっくり時間を使えるようにお膳立てをしたのだ。 初日はほんとにシャワーで身体を流すだけだった為、その時間はすぐに終了した。Yさんは見たことのないような笑顔で、「あ~気持ちいい!」を連呼されていたそう。 ただし、身体を拭く段階で女性職員はちょっとした違和感を覚えたとのこと。 Yさんはシャワーで濡れた身体をバスタオルで拭かせて頂く際に、身体の部位を指さして「ここ」、「次はここ」と指定してこられたというのだ。 とりあえずその通りに拭かせて頂き、さらに髪の毛は洗っていなかったのでそこまで時間もかからずに終えることができた。が… 2回目のシャワーの日は身体をボディソープで洗わせて頂けた。 3回目では洗面器にためたお湯でお顔を自ら洗われた。 4回目で髪の毛にシャワーをかけさせて頂けた。 という具合に、少しずつ「Yさんのお風呂への恐怖心」がやわらいでいく毎に、させて頂けることが増えてきた。 その後、何度目かの時に髪の毛をシャンプー・リンスで洗わせて頂くことができ、さらに湯舟に使って頂くこともでき、ついに「普通の入浴」をして下さるようになった。 と、段階を経ていく毎に、Yさんの細かい指示もエスカレートしていった… 「普通の入浴」ができた日に要した時間は約1時間。Yさんとの関係性を築き上げてきた女性職員でさえ、あまりの細かい指示にぐったりしていた。 それもそのはず。洗う順番、流す時のシャワーの圧、湯舟のお湯加減、湯舟に浸かる時間、身体を拭く順番などなど… ただ、この女性職員がすごかったのは、入浴介助後すぐに場面場面を思い出しながら、手順をメモっていったこと。 そして、Yさんの入浴の前になるとそのメモを読み返し、じょじょにYさんの指示がくるよりも先にできるようになっていったのだ。 そうしてYさん専用の『入浴介助マニュアル』が完成したのである。 そこまで全てこの女性職員が対応してくれた後、それからはYさん了承の元で、女性職員が他の職員を連れてYさんの入浴介助に入らせて頂き、マニュアルの内容を伝授していった。 ぼくも教えてもらったが、まぁ細かいこと細かいこと。結局、全部覚えきれなかったくらいであった。 だが結果的に、フロアの職員全員がYさんの入浴を担当させて頂けるまでに至った。 Yさんの入浴時間は、浴室にお連れしてから髪の毛をドライヤーで乾かして浴室を出るまでで約30分にまで短縮することができた。 Yさんが朝風呂に一番で入るのは変わらなかったが、Yさんの為に他のかたに午後まで待って頂くといったことはなくなっていった。 しかも、思わぬ副産物までついてきた。 フロアの職員全員が、Yさんだけでなく、他の入居者さんへの入浴介助についても、これまで以上に丁寧に出来るようになったのだ。 入居から約3ヶ月、Yさんの『お風呂への恐怖心』を少しずつ溶かしてってくれたこの女性職員のこと、ほんとに尊敬しています。 入居者さんお一人お一人にとことんこだわって、最善の方法を探すことの大切さを後輩から教えてもらいました。 最初になんで「手浴」をしようと思いついたのか?を聞いてみましたが、「なんとなく」だったそうです。 ぼくだけが知っていたYさんのナイショ話 実は、女性職員が最初に洗面器を持ってYさんの居室に入っていった時、ぼくはすでに勝利を確信してました。 まだ入浴を拒否されていた頃、Yさんがぼくだけに、「誰にも言わんといてな…」とぶっちゃけてこられたことがあったからです。 15年の時を経て、Yさんとの約束をやぶって発表しちゃいます。ぼくにだけ打ち明けてくださったナイショ。それは、 「ほんまはお風呂、好きやねん」でした。 結局、Yさんの恐怖心の理由はわからずじまいでしたが、そこに触れる人は誰もいませんでした。 おわりに 15年の介護の管理職歴でつちかった知識や経験なんかを、ほっこりおもろい感じで発信しています。 暗いニュースばかりが目立つ介護業界ですが、介護職は「カッコよくてやりがいがある仕事」だって思って頂けるように、発信を続けたいと思います。

  • おばあちゃんが壊れた日。おばあちゃんの最期から学んだこと。

    大好きだったぼくのおばあちゃんの晩年は、認知症の幻覚がひどかった。「家に知らん女があがりこんでる」「ベッドの下にヘビが入りよった」「身体中から虫がわいてくる」と騒ぎ立てる毎日。 日に日に、自宅で介護することが困難になっていく…   おばあちゃんっ子だったぼくの家庭環境 ぼくは生粋のおばあちゃんっ子だった。 生まれた時から一緒に暮らしてたおばあちゃんは、オヤジの母親。 オヤジ・おかん・ぼく・妹・おばあちゃんの5人家族。小さい頃から共働きだったぼくの両親に代わり、ぼくと妹はおばあちゃんに育てられたと言っても過言ではなかった。 小学1年生から引きこもりだったぼくは、極度の人見知り。どこに行くにも何をするにも、いつもおばあちゃんがいてくれた。 ぼくは小学校の高学年になるまで、おばあちゃんの二の腕を掴んでないと寝れないような子だった。 小学5年の時、オヤジの経営する会社が倒産し、一気に貧乏生活に突き落とされた。オヤジもおかんも借金返済に追われ、家のことはますますおばあちゃんが1人でやっていた。 そんな状態であるにも関わらず、オヤジは女性にだらしがなく、社長時代の金銭感覚を修正することはなかった。その事がきっかけで、おかんとの関係がどんどん悪化し、後に妹だけ連れて出ていくことになる。 おばあちゃんは息子が可愛いので、オヤジを責めるのではなく、なぜかおかんに対して厳しく当たっていた。そのことも、おかんが堪忍袋の尾を切る原因になった… おばあちゃんが認知症を発症 借金返済生活が15年ほどで完了し、おかんと妹も家を出て、ぼくも結婚して家を出て、それからおばあちゃんは息子であるオヤジと2人暮らしになった。 家賃がもったいないので、実家を引き払いオヤジと2人で小さなアパートに引っ越したのだ。それからほどなく、おばあちゃんは認知症を発症した。 タクシーの運転手だったオヤジは夕方に家を出ると翌朝まで帰らない。それまでおばあちゃんは家に1人。オヤジは帰ってきてもご飯を食べてビールを飲んだらすぐに寝る。 起きたとしても部屋は別々。おばあちゃんは誰ともしゃべらず、ひたすら毎日、テレビの前に座ってるという生活だったのがよくなかったのだろう。 ぼくもちょくちょくおばあちゃんの様子を見に行ってたし、子供たちを連れて遊びに行ったりもしていたが、大した刺激にはならなかったんだと思う。 すでに介護職だったぼくは、認知症が発症してからは頻度を上げておばあちゃんちに通っていたし、オヤジが2日ごとに夜間不在になるので、その日に泊まったりもしていた。 でもやはり、自分の家庭も仕事もあり、お世話するにも限界があった。 日中、家にヘルパーさんに来てもらうようになった。生活のお手伝いと話相手。デイサービスにも通うようになった。 人には「ええ顔」をするタイプのおばあちゃんは、「知らん人が家に来るの嫌や」「知らん人ばっかりおるとこに行くの嫌や」とぼくとオヤジには文句を言いながらも、ヘルパーさんともデイサービスのみなさんともすぐに馴染んでいた。 おばあちゃんの幻覚症状が出るのは、家に1人でいる時。 ぼくが家に行ってみると、ちょうど幻覚を見てる時ってことも多かった。「子供が家中、走りまわりよる」「さっきから女がこっち睨んできとる」「また服の中に虫が入ってきよった」とわめき散らす。 オヤジは自ら語らなかったが、おそらくおばあちゃんを殴ってた。オヤジに聞いても「そんなことするわけないやろ」と返ってきたし、おばあちゃんに聞いても息子をかばうのか「そんなことされてない」との返答しかなかった。 ぼくも、自分の生活を削っておばあちゃんのお世話に行っていたのだが、それがだんだん嫌になっていった。 認知症はどんどん進行していく。最初の頃からお世話になってる馴染みのヘルパーさんに悪態をつき、デイサービスの送迎員さんを殴ろうと暴れ、ヘルパーさんの利用もデイサービスの利用も、徐々に先方から難色を示されるようになっていった。 老人ホームへの入居を真剣に悩んだが、ぼくとオヤジが2人でいくらふり絞ってもお金の面で厳しく、なにより、同じ介護業界の人間の見解として「悪さ」をするおばあちゃんはどこからも断られると思ってた。 そんな矢先、心配していたことが起こる… 在宅介護を諦めた事件 ある日の夜中、「〇〇(オヤジの名前)が埋められてる!」と叫びながら、おばあちゃんは、アパートの壁を杖でドンドンと叩きまくり、警察沙汰になる。隣の方に通報されたのだ。 連絡を受けて急遽帰宅したオヤジは、アパート前に止まるパトカーと、野次馬の人達の群れ、警察官にさえ喰ってかかってる鬼の形相のおばあちゃんを見たとのこと。 おばあちゃんはオヤジの顔を見て落ち着いたそうだが、警察官から「しっかり見てあげて下さい」と注意を受けた。 翌朝オヤジからの連絡を受けたぼくは、急遽仕事を休んでおばあちゃんを連れ、主治医である認知症専門のDr.を受診。家庭事情を含め説明した上で相談すると、その場ですぐに調整して下さり、翌日には緊急で精神科の病院に入院させてもらえることになった。 心底ホッとした…。 オヤジもぼくも、お金の不安はかなりあったが、そんなことを言ってる場合ではなかった。 おばあちゃんの最期の日々 翌日も引き続き休みを取り、オヤジと一緒に家から約1時間ほど離れた山手のニュータウンの脇にひっそりと佇むA病院におばあちゃんを連れていった。 おばあちゃんは車から降りて病院に入ったところで表情が豹変し、急に凶暴になった。その状態で院長先生との面談に3人で臨んだ。 おばあちゃんが「あんたはキツネが化けとるんや!」と叫びながら院長先生を杖で突こうとしたところで看護師3名に押さえつけられ、車椅子で奥に連れて行かれた。 オヤジと2人で平謝りし、その後に入院の手続きなどを行い、最後に病室に通された時にはおばあちゃんは眠ってた。 1階のロビーから病室まで案内されたのだが、病棟の玄関では施錠されているドアを2か所通った。さらにおばあちゃんの病室にも鍵がかかっていた。 病室前の廊下ではベッドごと出されて眠っている方や、車椅子と腰ベルトでつながれている方などを目撃した。自分が勤める施設とあまりに違う光景に衝撃を受けた…。 「こういうところにおばあちゃんを置いていくのか…」 そう思いながらもぼくは、介護士でありながらおばあちゃんの介護を放棄した… よく「介護の仕事って大変ですよね」と言われるが、おうちで家族介護されているみなさんの苦労を思うと、軽々しく「そうなんですよ」なんて言えない。他人だからこそ冷静に、余裕を持って、その人のお世話をさせて頂けるんだと思う。 家族介護を何年もされたかたのお話を聞くたび、尊敬の念を深く抱く。ほんとによほどの覚悟がないと出来ないし、自分が壊れてしまってもおかしくないと思う。 だからこそ、家族介護を頑張っておられる方には、少しでもぼくたちのようなプロの介護士に頼ってほしいと伝えたい。そしてぼくは、頼られるプロになりたいと思う。 生きてるおばあちゃんを見た最後は、お見舞いに行った時だった。看護師さんに頭を撫でられ、気持ちよさそうに眠ってる姿。 陽に当たり、全ての苦痛から解放されたような穏やかな表情が、「家でお世話できなかった」というぼくの罪悪感を消してくれた。94歳の誕生日を迎えた春のことだった。 どれだけ穏やかに関わっても、認知症による暴言暴力が全く治まらないかたもいる。高齢者施設によっては「精神科の病院への入院」を良しとせず、ただ耐えることを方針とするところもある。 だが、介護する側にも限界がある。時にはそういった病院や薬に頼ることも必要であると、おばあちゃんのことがあったからこそ、考えるようになった。

  • 介護職のやりがいを教えてくれた人!18年間介護士を続けられる理由とは?

    Mさん(女性)は施設入居時から寝たきりではありましたが認知症は全く有りませんでした。施設入居初日に、ロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫。 それからずっと全てを拒否。食事、水分摂取、入浴、更衣、オムツ交換、そして会話。車椅子からベッドに移る際に激しく抵抗され、壁のほうを向いたままで、職員みんなが困ってた…。   介護士としてのデビュー ぼくが介護士になったのは29歳の時。 それまでは主に家庭の事情で、少しでも高い収入を得る必要があった為に、あえて正職員に就かずに、朝から晩までアルバイトを掛け持ちして収入を得ていた。 家庭の事情が落ち着き、結婚もしたので、そろそろ正職員として勤務をしようということになり、当時『ホームヘルパー2級』という資格を1ヶ月半ほどで取得したのちに初めての就活をした。 そしてすぐ、自宅近くに新設される『住宅型有料老人ホーム』にオープニングスタッフとして採用されたのである。 開設1ヶ月前に召集された介護職員の内訳は次の通り。 系列の高齢者施設から異動して来られた男性の主任さんと、オープニングスタッフの中から抜擢された2人の副主任。 2名ほどの経験者と、10数名の未経験者。 そのほとんどが高校や専門学校、大学を卒業したばかり。 ぼくはその中では圧倒的な最年長だった。 そして抜擢された副主任の2人は、介護経験豊富な女性と、 「社会人経験が豊富」なだけの僕だった。 未経験なのにいきなりの副主任…プレッシャーが半端じゃなかった。   初めての入居者さんが介護拒否 1ヶ月の開設準備期間を経て、いよいよオープン初日。初めて入居してこられたかたが、冒頭のMさんだったのだ。 病院の送迎車からストレッチャーに寝た状態で降りてこられたMさんは、施設のロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫された。 初めての入居者さんをお迎えしていた施設の全職員が唖然とする中、介護主任とぼくじゃないほうの副主任がMさんの元に駆け寄る。 なだめるように話しかけるが、聞く耳を持たれず、両手をバタつかせて抵抗されたので、送迎に同行されていたヘルパーさんも加わり、なんとか施設で用意していた車椅子(リクライニングタイプ)に移って頂いた。 その間も絶叫は続いていたが、お構いなしに送迎の方々は戻っていかれた。 車椅子を主任が押して、居室に案内する。ぼくたちは全員でついていく。それから居室のベッドに移って頂くのも3人がかり。 その時に初めて、ぼくは高齢者のかたの介助をさせて頂いた。そして思いっきり、腕に爪を立てられてキズを負わされた。 それからというもの、Mさんは、職員が少しでも身体に触れようものなら、ひっかくわ、噛みつくわ。飲まず食わずで3日間。時には大声、時には無視で、介護拒否を続けた。 さすがに3日目には、脱水を危惧した施設のDr.が点滴を試みたが、それも思いっきり暴れて拒否。「これだけ元気ならまだ大丈夫」と、Dr.の指示で様子を見ることになった。 Mさんは「要介護5」のかたで、認知症は全くないが、下半身に全く力が入らず寝たきりの状態。両腕は動かせるが、脇を半分開けることができる程度しか上げれず、また指が変形しているので上手くものを掴んだりできない。 オシッコは『バルーンカテーテル』という管につながれていて、流れ出てパックにたまったものを介護者が定期的に破棄する。ウンチはオムツ内にするよりないが、便秘傾向なので、下剤を服用して4〜5日ごとに出るかどうかという感じであった。 要するに、生活全般に介護が必要な方なので…。 このままずっと介護拒否が続くと、ほんとに大変なことになる。 介護士、看護師、ケアマネジャー、相談員など、多職種みんなでカンファレンスで話し合うもいい対策案は出ず。入院していた病院に問い合わせても、そんなことはなかったとのこと。 かたくなな心を溶かした作戦 徹底抗戦の構えから4日目の夜勤がぼくだった… 夕方に出勤し、Mさんの情報を日勤の職員に確認すると、その日も朝から何も口にせず、全て拒否が続いているとのこと。 夕食は18時から提供開始。衛生的な観点から食事は2時間以内に召し上がって頂くのが施設のルール。 Mさんの居室に運び、お声掛けするも無視。すべてのお椀にフタをした状態でお盆ごとテーブルに置いて一旦、退室する。 今日も食べてくれないのか… そう思いつつ19時、再度、Mさんの居室へ。 壁のほうを向いて寝ている背中に話しかける。 「Mさん、お腹へってないんですか?」「のど乾いてないです?」 …返事はない。 そこでぼくは(なぜそうしようと思ったのか全く覚えていないが)ペットボトルを取りに行き、 「のど乾いたから、ぼく飲みますね~」と言った後、 グビグビグビグビ~って思いっきり音を立てて飲んでみた。 そして、「あぁうまぁぁ!」と大げさに言ってみた。 すると、 “ぐぅ~~~っ”とMさんのお腹の虫が鳴いたのだ。 「ん?今のなんです?なんの音です?」と、詰め寄る。返事はない。 が、肩が揺れていることに気付いた。 わざと沈黙で間を取ったあと、Mさんの寝ておられるベッドのブレーキを外し、壁からベッドを離して身体を入れることの出来るスキマを作った。 そのスキマに入り、 「今のぐぅ~~~ってなんでした?」と言いつつ、壁のほうを向いてるMさんの顔を覗き込むと、目と口をギュッとして笑いを堪えてた。 「めっちゃ笑ろてますやん」とツッコむと、よけいに目と口をギュッとして堪える。全身が揺れている。 「Mさん、ぐぅ~~~~って聞こえませんでした?」って、肩に手を当てて言ったと同時に我慢しきれず大爆笑! 「あっははははははははは!!」 すかさず、「飲みます?」とお聞きすると、「うん」と笑顔で返して下さった。4日間で初めて見せて下さったその笑顔が可愛すぎた。 ペットボトルにストローを指し、お口元へ持っていくと、ポカリをゴックンゴックン一気飲みされた。それから「夕食も食べます?」とお聞きすると、「お腹がへってるから食べさせて」と言って下さった。 ベッドの頭側を上げて食べやすい姿勢になって頂き、ぼくの食事介助で召し上がって頂くと、パクパクと平らげて下さった。 途中で様子を見に来たもう1人の夜勤職員が、食事しているMさんを見て「え~~~?!」ってビックリしながら笑ってた。ぼくは副主任らしいことが初めて出来たことで、きっとドヤ顔をしていた。 拒否の理由と、介護という仕事のやりがい 食事しながらMさんは悲しそうにぼくに言った… 「この施設に入るって家族に言われてなかったんや。退院したら、自分のおうちに帰れるもんやと思ってた。おうちで家族が面倒見てくれるもんやと思ってた…そしたら、病院から車に乗せられても、家族のもんが一緒に乗ってけぇへんし、降ろされたと思ったら、見たこともないホテルみたいなところやろ?それでわかったんよ。」 それから、 「…でも、あんたらに関係ないもんな。家族とはまた話をしたいけど…とにかく、来てからずっと意地はってごめんな。ありがとう」 と、笑顔で言って下さった。 ご家族とのことを考えると複雑な気持ちではあったが、『ありがとう』の言葉で、ぼくは全身に喜びがこみ上げた。 身体が不自由でオシッコも管がつながれた状態。ご家族の協力がないとおうちでは生活できないと理解されていたMさんは、拒否がなければめっちゃ可愛いおばあさんだった… 介護職は、入居者さん・ご家族両方の思いを引き受ける仕事であり、めちゃくちゃやりがいのある仕事であるとMさんから教えて頂いた。 この時のことが脳裏に焼き付いているからこそ、ぼくは介護職という仕事を18年も続けてこれているのだと思う。 出会った初めての入居者さんがMさんで、ぼくは運が良かった…。

  • 訪問介護事業所の気になる人間関係とは?関わる人たちや重要度をご紹介!

    介護の仕事をしている人は優しい人が多いけれど、実際のところ人間関係ってどんな感じか気になりませんか? 今回は実際に訪問介護事業所で働いたことのある筆者が、その人間関係についてお伝えします。 訪問介護の人間関係 今回は訪問介護の人間関係について、筆者の経験を織り交ぜながらお伝えします。 中には人間関係の生々しい部分も出てくるかと思いますが、ぜひ最後まで読んで頂けると幸いです。 訪問介護で関わる人たち 訪問介護は仕事をするときに、基本的に1人で移動して介護サービスを提供しています。 そのため仕事をしている時は、自分1人だと思いがちです。 しかし、実際に仕事をしていると色々な人と関わっていることに気づきます。 今までの体験を元に、実際に関わったことのある人を振り返ってみようと思います。 ①ご利用者様 まずはご利用者様です。 ご利用者様あっての、訪問介護なのでここは1番にあげました。 ②ご利用者様の家族 次によく関わるのが、ご利用者様の家族です。 もっとも訪問介護は、家族が在宅で介護をしているけれど、仕事やプライベートの用事で面倒を見れないときに頼むことが多いです。 そのため、ご家庭によっては、ほとんど家族と合わないところもあります。 しかし、家族が利用を決定しているところが多いので2番目にあげました。 ③事業所の管理者 訪問介護事業所の管理者へは、仕事をしている過程でも困った事があったときに相談することが多いです。 筆者は実際の現場で、会社貸与のスマホがあったため、常にスマホを使用し相談や解決策を聞いたりしていました。 その他にも、ご利用者様が行方不明になっていたり、自身がトラブルに遭って動けないときなど、困り事はすぐに相談する大切な存在でした。 ④事業所の同僚 事業所には複数の人員が配置されています。 筆者が最初に配置された事業所は、女性管理者1人、その年に入職した新卒の男性職員、ベテランの40代女性職員、50代の男性ケアマネジャー1人の合計4人でした。 その事業所は、会社の中でも立ち上げたばかりの事業所で、筆者はそこで即戦力として働いていました。 この事業所は、1年後に15人ほどの職員が務める事業所になりますが、当初は人員が本当に少ない事業所でした。 ⑤事業所の事務員 事業所運営において、職員のシフト管理や事業所の経費管理、現場の職員ができない影の部分で働いてくれる職員が事務員さんです。 この事務員さんがどのように動いてくれるかで、事業所の印象は大きく変わります。 基本的に大切な電話は、最初に事業所にかかってきます。 そのため、その事業所の窓口として、最初に対応してくれる大切なポジションです。 ⑥事業所のケアマネジャー 事業所運営の上で、ケアマネジャーは絶対に必要な人員ではありません。 しかし筆者が勤めていたところには1人いました。 ケアマネジャーは介護の知識はもちろんのこと、介護における法律の部分などにも精通しているため、話をしていて勉強になります。 話した内容が、実際の現場で役立つこともあるため、重要な立場の1人です。 ⑦訪問看護の看護師 訪問介護の現場で、ご利用者様の次によく会うのが訪問看護師です。 在宅介護では、医療的ケアを必要としている人も一定数います。 そのため、定期的に訪問看護のサービスを利用しているご利用者様のお宅では、定期的にバッティングする時があります。 その他にも、訪問看護師から訪問介護員に指導が必要となったときに立ち会う事があります。 自身の事業所にいる訪問看護師の時もありますが、他事業所の訪問看護師の時もあるので、筆者自身丁寧に対応することを心がけていました。 ⑧他事業所のケアマネジャー ご利用者様が介護を受けるときに、ケアプラン作成のために必要な職種がケアマネジャーです。 普段の仕事中はほとんど関わりませんが、介護ではサービスの見直しをするためにケアカンファレンスというものが開かれます。 そのときに各事業所がご利用者様の自宅に集まり、ケアプランの見直しを家族を交えて行います。 その際、あまりその回数は多くはありませんが他事業所のケアマネジャーと関わることもあります。 中でも重要なのは? 上で挙げた中でも、重要なのはご利用者様と事業所の職員、そして訪問看護師さんです。 1日稼働していく中でも、よく関わるのがこの3つの方達です。 では実際の現場ではどうだったかをお伝えしていきます。 ご利用者様との関係 いうまでもなくご利用者様との関係は、関わる人たちの中で1番大切です。 ご利用者様との関わり方次第では、出禁になることもあります。 これは実際にあった体験ですが、筆者とは別の訪問介護員の話です。 とある男性職員が、あるお宅に介護に行った時の話です。 介護を受けているのは、そのお宅にいる娘さんのお母さんでした。 後で聞いた話によると、その娘さんはお母さんをすごく大切に介護してきていたようで、当時最初に訪問した男性職員の介護が雑で耐えられなかったそうです。 そもそも、ご利用者様とその家族とも関係性を築けていない中での訪問だった為、仕方のないところはあるものの、そのような出来事が実際に起こってしまいました。 筆者自身も、あまり聞いたことはありませんでしたが、以来そのようなこともあるのだと知り、仕事を改めて丁寧に行うきっかけになったことを覚えています。 事業所の職員との関係 次に重要なのが、事業所の職員です。 訪問介護は勤務時間によって、まる1日事業所の職員と関わらずに終わる日もあります。 つまり、訪問件数と勤務時間によっては事業所の職員と関わることなく業務を終える職員もいます。 基本的に、仲のいい同期や先輩などを中心にいい関係の人が多かったのですが、中には意地悪な職員もいたりします。 筆者が経験した事業所の職員で、事業所の窓口である事務員さんとの関係に悩んだ事がありました。 もちろん印象の悪い人ばかりではないですが、筆者が関わった事務員さんは訪問介護員に非協力的な方でした。 そのため、緊急時は苦労もしましたが上司などに相談をして困難を乗り越えた経験があります。 その時の経験から、訪問介護の空いている時間に事業所の職員と食事をしたり、仕事の後すこし話をする事が、普段の仕事に関わることもある事を学びました。 訪問看護師との関係 訪問看護師は、介護士より知識があると言う自負からか、介護士を下に見る方もいます。 ありがたいことに筆者は、訪問看護師に恵まれたため苦労した経験はなく、悪い印象もありません。 しかし、他の職員の話だと馬鹿にされたり、本来看護師がするべき仕事を押し付けられたなどの話を聞いたことがあります。 本来介護は、看護師が行う仕事の一部を切り取り、看護師の負担を減らすのが目的で出来た仕事です。 両者ともに助け合って仕事をしたいものです。 人間関係が悪いのは本当? 介護の人間関係が大変だといわれるのは、関わる人が他の職場に比べて多いことです。 介護の仕事は上記に示した通り、数多くの人たちと関わりを持ちます。 年代も幅広く、さまざまな業種の人たちと関わることがあります。 お互いにきちんと理解しあわないと、人間関係がこじれてしまいます。 また、苦手な人と関わることもあるでしょう。 介護という仕事柄、さまざまな人たちと密なコミュニケーションを取らなくてはいけません。 介護士は人手不足であることが多く、数多くの業務を抱えています。 そのため精神的に余裕が無く、感情的になりやすいです。 したがって、人間関係で苦労する介護職の人たちが多いのは本当です。 人間関係をスムーズにするために 人間関係が悪化してしまうと、仕事へのストレスをさらに増やしてしまいます。 働きやすい職場にするためにも、人間関係をスムーズにし、職場の府に気を良くすることはとても重要です。 働きやすい職場することは、利用者へのサービスの向上や仕事の効率化にもつながります。 では、どのようにすれば人間関係を良くすることができるのでしょうか。 相手のことを考える そもそも他人は自分と異なる意見を持っていることが多いです。 まずは反発せずに素直に相手の意見を聞いてみましょう。 反論がある場合は、その後に自分の考えを伝えればよいのです。 忙しくても感謝と笑顔を忘れない 笑顔や感謝のない職場は全体的にピリピリした雰囲気になりやすいです。 それが人間関係を悪化させることにもなってしまいます。 どんなに忙しくても、相手への感謝や笑顔を忘れないようにしましょう。 人間関係が辛いときは? どうしても人間関係が辛いときは、誰でもよいので相談してみましょう。 ストレスがたまると仕事の効率が悪化するだけでなく、健康被害を起こすこともあります。 自分なりのストレス解消法を見つけることも重要です。 もしもどうにもならずに仕事が辛くなってしまったら、転職を考えるのも1つの手段です。 人間関係の良い職場を見つけるために 人間関係の良い職場を見つけるためには、いくつかコツがあります。 頻繁に求人をしているところは要注意 頻繁にしているところは頻繁に人が入れ替わっている可能性が高いので、職場の人間関係が悪いことが多いです。 求人の内容をよく確認し、職場見学するなどして十分にリサーチするようにしましょう。 全体的に元気がないところは要注意 気になる求人がある場合は、必ず職場見学に行きましょう。 利用者やスタッフに笑顔や会話がない場合、何かしらの問題があることが多いです。 雰囲気が嫌だと思ったら、そこで働くことはやめた方が良いかもしれません。 まとめ 訪問介護は1人で行える仕事として、施設型にはない魅力のある仕事です。 しかし実際は多くの人が関わって成り立っている仕事であり、助け合っていることを忘れてはいけません。 介護士に限らず、他の職種の人も介護職員が介護をして収入を得ている側面もあります。お互いが支え合い、いい事業所づくりをしてほしいです。  

  • 認知症のNさんの話。

      認知症のNさんは、ぼくが勤務する特別養護老人ホームに入居してこられた初日から 夕方になるとご自身で風呂敷にまとめられた荷物を手に フロア内をウロウロし始めるという徘徊行動を繰り返されていた。 繰り返される夕方の帰宅願望 介護職員が「どうされましたか?」とお聞きすると 決まって「おうち帰らなあかんねん」と言われ 出口を探して廊下を行ったり来たりされるのだ。 他部署の職員がエレベーターでフロアに上ってくると、入れ違いで そのエレベーターに乗り込まれ、1階の事務所まで行かれたこともあった。 杖でスタスタと歩かれるそのご様子は、普通のお元気なおばあさんなので そのまま玄関から外に行かれたら、老人ホームから間違って出てこられたとは 誰も思わないほど。 それがかえって危険だった。 1度ウロウロし始めると、”早くおうちに帰らないといけない”という焦りから こちらからの声掛けに全く耳を傾けて下さらず 「今日はおうちに帰る日じゃないですよ」 「外はもう暗いので明日にしましょう」とお伝えしても 「こんなところにいてる場合じゃないねん!」 「早く帰らせて!」と 不穏が募るばかり。 事務所まで行かれた際には、玄関の自動ドアが開くたびに 出て行こうとされるのを止めなければならず お話を伺いながら落ち着いて頂き 居室のあるフロアまでNさんに戻って頂くのに かなりの時間を要したほどだった。 緊急カンファレンス 緊急で、介護のフロア主任・Nさんの担当職員・看護師・ケアマネジャー 相談員・リハビリ職員などが集まり、Nさんのカンファレンスを実施。 ぼくも参加することに。 「夕方になるまでに没頭できるものをして頂く」 「精神的に落ち着かれる薬を飲んで頂く」 「何か気がまぎれるレクリエーションをして頂く」などの意見が出たが どれも長期的な対応方法であり、その日からすぐに効果のある方法は なかなか思いつかなかった。 結果、統一した対応として、お疲れになられて落ち着いてこられるまでは 下手にお声掛けして「火に油を注ぐようなこと」はしないでおこう、となった。 落ち着かれると職員の声掛けにも応じて下さるようになるので それを待つという方法である。 ただ、杖歩行で足腰もしっかりされているとは言え やはり転倒のリスクもあり、また、エレベーターへ乗り込まれる可能性も あるので、付かず離れずの対応が必要だった。 帰宅願望によるウロウロは夕方から始まるので ちょうど夕食の忙しい時間とカブる。 それが毎日。 人手も足らず、Nさんだけに付きっきりになれる職員はいない。 かといって、ウロウロされるがままだと、Nさんはますます不穏になられるし リスクもある… どうすればいいか糸口がつかめず、職員みんなが困ってた… 最も光り輝いていた時代 認知症のかたの中には、自分が自分でなくなっていくような感覚から 不安や不満、混乱、恐怖といったネガティブな感情を感じなくて済むように ご自身で現実とは違う世界を創り出し、そこに避難するというかたがおられる。 Nさんの場合は、ご自身の人生において最も光り輝いていた 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という世界に 意識を戻すことで、認知症のツラさから逃避しているのではないか。 だから 「主人や子供たちが帰ってくるまでに晩ご飯の支度をしないといけない」 という思いで、夕方からの帰宅願望が出現しているのではないかと推測。 その推測を元に、ぼくはある作戦に打って出る。 寄り添いながらの散歩 それは、普段から現場職員の1人としてカウントされておらず、いつでもフリーで 動ける介護部長という役職のぼくだからこそ出来ること… いつものように夕方の帰宅願望が出現し 「おうち帰らなあかん」とウロウロし始めたNさんのお顔を見ながら 「おうちまで送っていきますね」と一緒に施設を出た。 風呂敷にまとめた荷物を背負い、杖をついておうちに向かうNさん。 あたりをキョロキョロと見渡しながら、時に立ち止まり、時に急な方向転換。 車道にも出ていくのでヒヤヒヤする。 隣りにつきながら安全を確保し、なるべく穏やかに話しかけるが 「ついてこんでええ!」と大きな声で怒鳴られる。 歩行者や自転車のかたがこちらを怪訝そうに見ている。 こけそうな時など、すぐに手が届く距離で付いて歩き どっちに行けばいいか迷っておられるしぐさの時に話しかける。 少しずつ少しずつ、ぼくの言葉にも耳を傾けて下さるようになり 車通りの少ない住宅街のほうに誘導していく。 だんだんぼくの顔に安心される感覚が大きくなってくる… そんな散歩を約2時間。 あたりもだいぶ暗くなってきた頃、最後はヘトヘトで 公園のベンチに座り込まれた。 施設に電話して相談員に車で迎えに来てもらう。 Nさんにペットボトルのお茶を飲んで頂いて、それから車で一緒に施設に戻った。 他のみなさんは夕食を召し上がっておられた。 翌日も、夕方に「おうち帰る!」が始まる。 「送っていきます」「来んでええ!」という会話を交わしつつ 2人で一緒に施設を出る。 前日と同じようなコースの散歩。 公園のベンチに座ったのは約1時間30分後。 施設に電話して車でのお迎え。 さらに次の日。 1時間ちょっとの散歩で施設へ歩いて帰る。 日はまだ落ちておらず、夕焼けに染まったアスファルトに Nさんとぼくの影が並んで伸びていた。 散歩3日目にしてはじめて夕食前に帰ってこれたので なんとなくの思い付きではあったが 職員がしている夕食の準備を手伝って頂くことにした。 笑顔で「ええよ」とのお返事。 「おうちに帰る!」と言ったことはすっかり忘れておられた。 4日目の散歩は30分程度。 Nさんはまだまだ歩けそうだったが、途中で切り上げられるかも?と思い 「夕食の準備があるから帰りましょうか?」と声を掛けてみた。 すると、「そうやな。帰ろか」とのお返事。 5日目でついに、「おうちに帰る!」がなくなった。 ぼくが、「散歩行きませんか?」とお声掛けすると 「今から行ったら、この人らの晩ご飯に間に合わんがな」と笑顔で言われた。 それ以降、みなさんの夕食の準備をすることが、Nさんの日課になった。 夕方からの帰宅願望は、時折、思い出したかのように顔を出すこともあったが 「今からNさんが帰ったら、みなさんの晩ご飯に間に合わないですよ」と お伝えすると、「そやな。じゃあ明日にするわ」と笑顔ですぐに現実の世界に 戻ってきて下さるようになった。 この対応を職員全員で共有して統一した。 帰宅願望から自分の居場所へ Nさんがおうちに帰りたかったのは 「家族が帰ってくるまでに夕食の準備をしないといけない」という 妻として、母親としての思いがあったから。 そしてそれは、認知症により、自分で自分に違和感を覚え じょじょに自分ではなくなっていくことの不安や恐怖から自分を守る為に構築した 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という 世界で生きることを選択したことから生じた思いだった。 Nさんの世界に入って寄り添い、否定せず じょじょに「この人は安心できる人」と認識して頂くことで 落ち着いて頂くまでの時間を短くする。 穏やかな気持ちになられたところで、ぼくのほうからお願いし 他のみなさんの夕食の準備をお手伝い頂く。 そうすることで夕食の準備をする対象を 「家族」から「この人ら」に変換できたことで Nさんが構築した世界と現実の世界を結び付けて1つにすることが出来た。 そしてNさんから、夕方の焦りが消えていった。 Nさんはその後、「人の役に立っている」ことで、ご自分の居場所を見出され 職員のするいろいろな業務を笑顔で手伝って下さり その後、体調を崩されるまでの数年間をほんとにイキイキと過ごされた… 今から13年前のお話です。

  • 訪問介護は辛い?実際に経験した経験者の語った思いとは?

    訪問介護の仕事は楽しいこともあるけども、辛い事もあります。 今回の記事では、実際に訪問介護を経験した筆者が、その体験を基に辛かったことをお伝えします。 訪問介護の辛いところ 介護の仕事は人に感謝されるいい仕事です。 介護以外の仕事も経験してよりわかった介護の仕事の魅力は、他者からの感謝を本当の意味で受け取れるところに魅力があります。 そんな中「きつい、しんどい、きたない」と言われるこの仕事を、喜んでしたいと言う人が少ないのも現実です。 個人的には魅力的だと思える介護の仕事ですが、今回は筆者が体験した訪問介護での辛かった体験をお伝えし、その対応策も付け加えようと思います。 それでは始めていきます。 自転車移動が辛かった これはシンプルに訪問するための自転車移動が辛かったです。 都市部での訪問介護の仕事は、自転車移動が基本になります。 地方の移動距離が長い事業所なんかだと、車で移動するところもあるようですが、都心部での基本は自転車です。 自転車移動での足腰への負担は、1件1件の移動を毎日積み重なると大きく、なかなか辛い経験でした。 電動自転車になってからはかなり楽になりましたが、それ以前はまるで足腰を鍛える修行をしているような物でした。 また事業所によっては、1日の訪問件数が多いところもあります。 筆者は、割と短めのケアを複数訪問していたため、1日の訪問件数は平均して15件前後でした。 この数字は、訪問介護業界の方でないとピンとこないかもしれません。 参考までに、筆者が聞いた他事業所の訪問件数は、1日平均5件ぐらいが基本でした。 若い訪問介護員でも多くて10件程度だそうです。 私は毎日3倍走っていたことになります。 訪問介護はご自宅同士の距離が遠いこともあるため、件数が短くても距離が遠かったりしてその移動で疲れるという事もあります。体力に自信のある方や身体を鍛えたい方などにはよいかもしれませんが、そうでない場合は電動自転車をおすすめします。 ご利用者様との人間関係 これも筆者の訪問先にいたあるご利用者様ですが、そのお宅はお風呂とトイレが共同の家でした。 部屋は6畳1間で、家賃も1ヶ月1万円程度のお宅でした。 そこのご利用者様は、服薬確認と安否確認だけのサービスでしたが訪問するや否や罵詈雑言の嵐でした。 さらに提供したいサービスを受けてくれないものですから終わりたくても終われない事もしばしばでした。 最終的に何もせずに帰らざる終えない時もありましたが、このようなご利用者様もいました。 ただ全ての人がこのような人ばかりと言うわけではありません。 あくまで一部のご利用者様だけなので、今紹介したような方はごく稀です。 他にも訪問先でご利用者様の家族に手を握られたり、セクハラのようなことをされた時もあります。 そういう事があった時は、訪問介護が辛いなと思ったりもしました。 ゴミ屋敷への訪問 表現が難しいのですが、いわゆる衛生環境が極端に良くないお宅は一定数あり、その割合は少なくありません。 筆者が経験した訪問先で、訪問するたびにスリッパを使用して入室する訪問先がありました。 そのお宅はマンションのとある一室でしたが、廊下にいるだけで異臭が立ち込めてきて、部屋の中はゴミでいっぱいでした。 訪問介護サービスを利用すると言うこともあって、入り口や洗面台、トイレや浴室などの介護で使用する場所は多少掃除されていました。 しかし衛生的とは言えませんでした。 私たちもプロですので、その環境下で介護をしました。 他にも、訪問先のお宅の中を土足で入ることになっているお宅もありました。 このお宅は、訪問入浴のサービスがありお風呂だけはすごく綺麗だったのを覚えています。 しかしそれ以外は足の踏み場もないぐらいゴミ袋の山でした。 必ずしもそのようなお宅ばかりではないですが、そのような環境を見たことが無い筆者にとっては、なかなか衝撃的で辛い経験だったのを覚えています。 1人で仕事していること 元も子もない話ですが、1人で仕事をしていることが辛い時もありました。 訪問介護は、基本的に1人で介護をして1人で完結して訪問先を退出します。 ほとんどの場合、家族はおらずご利用者様1人の時が多いです。 例えばご利用者様にトラブルがあったり、その他のアクシデントなどは1人で対応しなければいけません。 また介護保険以外のサービスの要求をしてくるご利用者様や、そのご家族がいたこともあります。 そのようなときに全て1人で対応するという面が、施設型の介護と違う大変さでした。 他にも、筆者が1人の訪問で辛いと感じたのは、1日の中であまり会話がない時でした。 自立度が高いご利用者様だと会話を多く交わして退出できるのですが、自立度の低いご利用者様だと、失語症などの理由で会話をできずにサービスを終えてしまうことが多かったです。 職員にもよりますが訪問介護の場合、他の職員との会話もあまりないため、ご利用者様とその家族と会話をしない限り、会話をする機会がありませんでした。 そのため、仕事はしているけれど淡々と目の前の仕事をこなし続けていることを、辛いと思う時期が何度かありました。 もちろん職員全員に当てはまることではありませんが、少なくとも筆者はそのように感じる場面がいくつかありました。 訪問介護が辛いと思った時の対処法 訪問介護が辛いと思ったときは現状を変えるためにも以下のような方法をとると良いでしょう。 管理者に相談 例えば、訪問先のご利用者様からセクハラや、モラハラを受けている時はまず上司に話しましょう。 筆者は実際にそのようなお宅があったときに、当時の管理者に相談しています。 訪問介護員も人間ですので、辛いときは無理をしてはいけません。 筆者の場合正直にそのときの現状を伝えた結果、訪問先を変更してくれました。 他にも、自転車移動の距離が長く移動が辛いことも話しました。 改めて訪問先の見直しをしてくれて、結果的に移動がかなり楽になり体への負担が減りました。 介護は体を使う仕事ですので、他の負担は極力減らした方がいいですね。 困った時は、管理者に相談してください。 最初の課題解決の動きだしは、まずそこからかもしれません。 環境を変える 環境を変えるのも1つの手です。 筆者は異動や、転職は行いませんでしたが、他の職員で異動をして仕事環境が変わり、前よりイキイキと仕事をしている職員がいました。 会社の規模にもよりますが、社内で異動が叶うのであれば事業所を変えてみるといいです。 その行動だけで、世界が大きく変わってきます。 もし事業所を移動できなかったり、異動しても環境が変わらず辛い時は、転職も選択肢に入れてください。 訪問介護の事業所は、探せば多くあります。 できればご自身が働いたことが無い地域がいいかもしれません。 事業所の環境や、雇用条件など見るところは多くありますが、転職をして今以上に良い環境で働いている職員もいたため、1つの選択肢としておすすめです。 まとめ 今回、実際に働いた体験談をもとに、訪問介護で辛かったことをお伝えしました。 しかし、訪問介護は何も辛いことばかりではありません。 仕事をしていて楽しいことももちろんあります。 辛いと言う点も個人差があり、上に挙げたもの以外にも辛いと思うポイントはあるのではないでしょうか。 大切なのは、その環境下で自分自身がどうしたいかです。 それを考えられる記事になっていれば嬉しいです。

  • 親の老後の資金管理に3割以上が不安~多くの人が親と十分に話せていない現状が明らかに

    「スマート家族信託」を運営するトリニティ・テクノロジー株式会社(東京都港区)は、親の認知症による資産凍結リスクとその解決策である「家族信託」に関する意識調査の結果を公表しました。それによると、親の老後の介護や資金管理について3割以上が不安を感じている一方で、親の認知症対策や将来のことについて親と十分に話せていない方が多いことがわかりました。 この調査は、親が存命で親の現金預貯金額が2000万円以上ある45〜65歳の男女約1000人に対し、2022年5月27日から6月1日にかけて実施しました。 認知症によって意思能力が喪失し、銀行預金の引出しなどができなくなる資産凍結について知っていますかの問いに対し、「よく知っている」が24.1%、「聞いたことがある程度」が43.6%で、4人に1人がリスクを認識していました。 資産凍結が高齢化社会の大きな問題となるなかで、その対策として成年後見制度が生まれましたが、制度の利用者は頭打ちになっているのが現状だそうです。このため、家族間で信託契約を結び、家族に財産の管理を依頼できる制度として「家族信託」がクローズアップされてきました。 家族信託の認知度についての質問では、「制度を理解している」が26.7%だった一方で、39.0%が「聞いたことはあるが、どんな制度かは知らない」と回答しました。 また、「認知症による資産凍結のリスクについて、親とは話しにくいと思いますか」という問いでは、「非常にそう思う」「そう思う」が合わせて36.3%となり、「親の将来についてもっと話したいですか」の問いには、4割の人が「非常にそう思う」「そう思う」と答えています。 親の将来について不安に思うことでは、回答の多い順に「認知症」「老後の介護(時間面)」「老後の介護(費用面)」「遺産相続」「資産管理」などとなっていますが、回答者の3人に1人は資産管理に不安を感じていることも浮き彫りとなりました。 同社は「万が一に備えて親が元気なうちに対策を考えることは、家族全員の安心に繋がるのではないでしょうか。スマート家族信託を通じて、家族信託を全国に正しく普及させることにより資産凍結に悩む人をなくし、日本の巨大な社会課題を解決します」とコメントしています。スマート家族信託:https://sma-shin.com/(トリニティ・テクノロジー株式会社のプレスリリースより)

  • ヘルパーが直行直帰できない理由は「記録の共有」が最も多く~コロナ禍の訪問介護に関する調査で判明

    訪問介護専用アプリを手掛けているColibri合同会社(東京都中央区)は、訪問介護に従事している人を対象にした「コロナ禍における訪問介護」に関する調査の結果を公表しました。それによると、訪問介護先への「直行直帰」を行っていないと答えた人の半数以上が、出社しないとできなかった業務に「記録の共有」を挙げていることがわかりました。 この調査は、現場で働いている人たちがコロナ禍での訪問介護にどのような変化や悩みを持っているのかを聞きたいとして、2022年6月に訪問介護従事者(ヘルパー)1014人を対象にインターネットで実施したものです。 「2020年当時、直行直帰をしていましたか」の問いでは、「はい」が74・5%だったのに対し、25・5%の人が「いいえ」と答えています。その理由では、最も多かったのが「事務所で出社退社の記録をする必要があった」で、次いで「仕事に必要な用具や車両などを事務所に取りに行く、または戻す必要があった」「報告書を事務所に提出する必要があった」の順となっています。 直行直帰していなかった人に「出社しないとできなかった業務は何か」を複数回答で尋ねたところ、「記録の共有(51.4%)」「勤務時間の管理(42.9%)」「引き継ぎ(40.2%)」が上位を占めました。 また、「直行直帰と出社、選べるとしたらどちらがいいですか?」との質問では、6割以上の人が直行直帰と回答しています。回答者への詳しい聞き取りをした同社は「出退勤の時間短縮を望んでいる方に加え、コロナ禍ということもあり、できるだけ人との接触を減らす工夫として直行直帰を望んでいる方もいるようです」と分析しています。 そのうえで、調査結果について「出退勤記録や情報の共有など、オンラインを利用して行える業務を増やすことで、出社する手間が減り、直行直帰がかなうようになるかもしれません。ヘルパーの方々の負担を少しでも軽減するために、こうしたシステムの構築を行っていくことがカギとなりそうです」とまとめています。(Colibri合同会社のプレスリリースより)

  • 介護職員の夜勤のこと〜たっつんのほっこり介護日記〜

    夜勤の日の朝は、いつもよりのんびりできる。仕事とは言っても、22時からの開始だからだ。 ただし、普通の休日とも違う。夜勤開始まで、徹夜で働くのに備えて身体を極力休めておく必要があるからだ。 というわけで、どこかに出かけるようなことはせず、できるだけ昼寝の時間を確保のに専念することになる… 夜勤開始までのこと ただ、会議中なんかはすぐに眠くなるのに対して、いざがっつり昼寝しようと思うと、これがなかなかできないのだ。 外が明るいし、家族がいる場合もある。ついつい本を読んだり、Youtubeを見てしまったりする間に時間はどんどん過ぎ、気付いたら15時みたいなことがよくある。 そして慌てて目を閉じる。 それでもなかなか寝つけずに、寝れたと思ったら18時には目が覚める。結局、よく寝れて2時間みたいな感じになることも多いのだ。 22時には勤務を開始することになるので、最低でも10分前にはフロアで遅出勤務の職員さんから、その日の情報の「申し送り」を受けたい。 そこから逆算して、晩ご飯を食べ、お風呂に入り、洗濯物をたたむくらいは終わらせた上で、その他もろもろの支度をするということの時間配分を決めてやっていく。 で、おうちを出発し、施設に向かう。 夜勤前のおうちでの過ごし方で、どれだけHPを温存した上で夜勤に臨めるかが変わってくるので、かなり重要であると捉えている。 夜勤開始から0時まで 施設に到着するまでの道中も、「夜勤しんどいなぁ。めんどくさいなぁ。なんとか誰かと代わってもらえないかなぁ。」なんて考えている。 そんな願いもむなしく施設が見えてくる。玄関から入り、自分のロッカーで制服に着替えた段階で諦めがつき、「よしっ、朝まで頑張るしかないな」みたいな感じで覚悟が決まる。 タイムカードを押し、自分が勤務するフロアへ。廊下はうす暗く、入居者のみなさんの姿は見えない。22時までの勤務の職員さんが、夜のご様子について記録をつけている。 詰所(そのフロアの事務所のようなところ)に入り、業務連絡が書いてある「申し送りノート」に目を通す。それから遅出の職員さんに、その日一日の入居者さんのご様子を聞く。 体調の悪いかた、いつもと違うご様子のかた、ショートステイ(数日だけ施設に泊まりに来られること)のかた。夜間、特に注意してご様子を見させて頂くべきかたの情報をメモりつつ、頭に入れる。 申し送りが終わり、22時が過ぎると遅出の職員さんは勤務を終えて帰っていく。フロアには自分も含めた夜勤者だけになる。 夜勤者同士で声を掛け合い、「何かあればお願いします」という感じで協力体制を確認して持ち場につく。 自分が担当するエリアの入居者さんのご様子をお一人ずつ確認して回る(巡視)。 22時過ぎの時点でほとんどのかたがすでに寝ておられるが、たまにテレビを見たりして起きておられるかたもいる。体調不良のかたは特に注意してご様子を確認する。 朝まで何事もないことを願いつつ、1回目の巡視を終える。 お一人お一人が一日に使用するオムツを用意して各居室に配って回ったり、食事用のエプロンを干したり、洗濯物をたたんだりといった雑務をしているとすぐに時間が経過する。 夜勤中のメインの仕事は、ご用のあるかたが押して知らせて下さるナースコールに対応すること、巡視、オムツ交換、ご自身で身体を自由に動かすことの出来ないかたの身体の向きを変えさせて頂くこと(体位交換)である。 巡視は2時間ごと、そのタイミングでオムツ交換の必要なかた、体位交換の必要なかたにそれぞれ対応する。 オムツ交換は、お一人お一人の体格やオシッコの量、出るタイミングなどを考慮して、適切なサイズ・吸収量のオムツを選び、適切な時間帯での交換を決めていく。 なので、巡視ごとにオムツ交換をさせて頂くかたは一律ではないし、お一人お一人に、より適した交換のタイミングがわかってくるので常に変化する。 夜間帯に1回しか交換しないかたもいれば、3回交換するというかたもいる。 一方、体位交換については、2時間ごとに身体の向きを変えないと、同じ部位に体重による圧力がかかり続けることになり、褥瘡(じょくそう)=床ずれが発生する原因となってしまう。 この為、巡視ごとに必要なかた全員に体位交換をさせて頂くことになる。 簡単に表現すると、 22時:全入居者さん(20名)の巡視 オムツ交換5名 体位交換8名 0時:20名の巡視 オムツ交換6名 体位交換8名 2時:20名の巡視 オムツ交換5名 体位交換8名 4時:20名の巡視 オムツ交換4名 体位交換8名 6時:20名の巡視 オムツ交換6名 体位交換8名   といった感じ。オムツ交換の人数が時間ごとに変わる。 ただオムツ交換に関しては、ナースコールで「出たから交換して」と自ら言われて交換させて頂いたり、居室に入った瞬間にウンチのニオイがしているので、交換のタイミングじゃないけど交換させて頂いたり、というイレギュラーに常に対応するので、決められた通りだけで済むことはほぼない。 というわけで、0時の巡視に回る。この巡視が終わる頃にはみなさんが深く眠りにつかれ、フロアがより静かになっていく感じを受ける。 0時~4時まで フロアで勤務している夜勤者は施設の入居者さんの人数によって違いがあるが、だいたいこの時間帯に、順に声を掛け合って休憩することが多い。 自分の担当するエリアに加えて、休憩中の夜勤者が担当するエリアのナースコールにも対応する。1時間ほどの休憩をそうやって回す。 ちょうど2時のタイミングで休憩に入る夜勤者が担当するエリアの巡視と体位交換は、休憩していない夜勤者が担い、オムツ交換だけは休憩後の職員がちょっと時間をズラして回ることになる。 穏やかな夜は、ほんとにただただ静まり返り、待機しながら普段できない書類の整理をしたりする時間を確保出来たりもする。 だが、ナースコールを何度も押してこられるかたや、落ち着かれずに何度もベッドから立ちあがって転倒のリスクが高いかた、大きな独り言をずっとしゃべっておられるかたなど、認知症からくるそういった症状が出るのもこの時間が多い。 なんとか落ち着いて寝て頂くような関わりをするが、なかなか落ち着いて下さらず、結局、朝まで対応が必要な場合もある。 ”その日”に当たってしまったらほんとにヘトヘトになってしまうが、こればかりは誰にも読めない。 夜勤者全員の休憩が終わると、再びそれぞれ担当するエリアだけの業務に集中する。 4時~6時 各自、休憩を終えて4時の巡視に回る。 休憩を取ったにも関わらず、この巡視が終わってからの時間帯が、ぼくは一番睡魔に襲われる。「もうすぐ夜が明ける」という安心感からくるのかも知れない。 「眠いなぁ」と言いながら、朝の準備を始める。 食事用のエプロンの用意、顔拭きタオルの用意、お茶ゼリー(飲み込む力が弱いかた用の水分として)をタッパーからマグカップに取り分ける、朝食後の歯磨きの為の歯ブラシとコップの準備、ゴミの回収と新しいゴミ袋の設置、夜間帯のお一人お一人のご様子を記録に残すなどなど。 6時以降~ 6時になると、ボチボチ起きてこられるかたがおられる。 ナースコールを押して「起こしてくれる?」と呼ばれるのでそのかたの居室に行き、朝の支度をお手伝いさせて頂く。 これまでの生活習慣から、目覚められるかたはだいたい順番まで決まってくる。 夜勤者もその順番を把握していて、まずはAさん、次にBさんという感じで居室に伺い、起きられるかどうかをお聞きする。 「まだ寝とくわ」という場合は「また後で来ますね」とお答えし、「もう起きるわ」という場合にそのお手伝い。 お一人目のかたがリビングに出てこられたタイミングで照明をつけ、カーテンを開ける。テレビを付けさせて頂き、お湯で温めた顔拭きタオルをお渡しする。 起きると希望されたかたに起きてリビングに出てきて頂いたあとは、そのかたがたの体温と血中酸素濃度(血液に含まれる酸素量)を測定し、体調の確認をする。 当日が入浴の日に当たっている場合は、血圧と脈拍も同時に測る。 そうこうしていると7時前になり、早出の職員さんが出勤してくる。その姿を見ると心底ホッとする。 早出の職員さんに夜間の入居者さんのご様子を伝え、まだしていない記録をして、夜勤の業務が終わる。 夜勤明け 夜勤に入る前はほんとに毎回、「しんどいなぁ」「めんどくさいなぁ」と嫌な気持ちになるのに、夜勤明けの「あぁ終わった~」という開放感はめっちゃ好き。 帰りには、自分へのご褒美として朝マックに寄ってしまうことも多いし、おうちに帰ってからダラダラ過ごすのも最高に気持ちいい。 夜勤について 夜勤は怖い。 特に体調不良のかたがおられたり、いつ亡くなられてもおかしくないような状態で「施設での看取り」を希望されているかたがおられると、「何かあったらどうしよう」という気持ちになる。 介護士を18年やっているが、その感覚に慣れることはない。だからこそ、何事もなく朝を迎えられた時の安心感が半端ないのかも知れない。 今日もまた、全国で夜勤に入っている介護士さんがたくさんいると思うと、勝手に仲間意識が芽生えてくる。

  • コロナがほんとにキツかった件

    まるで戦場です。1週間のコロナ療養中も報告は受けていた。 が、まさかこれほどとは…山積みの感染防護具、廃棄用ゴミ箱、消毒液。フロアに誰もいない。 陽性者だらけでみなさん居室隔離。職員1人にかかる負担がヒドい。「熱あります!」「検査して!」「陽性でした!」が当たり前。 終わりの見えないトンネルに閉じ込められた気分だった… 兆しは突然に現れた… 施設職員の徹底した感染対策のおかげで、周りの施設の入居者さんがコロナに発症したという情報を何度となく聞きながら、ぼくの勤務する施設ではほとんど発症者を出すことなく平和だった。 だがやはり、完全に防止することは不可能だった。 2023年の1月。 職員2名が同時にコロナに発症し、その2名が勤務するフロアで、ついに入居者さんの中から感染者が出てしまったのである。 施設はわりと年季が入っていて、個室もあるが全室ではない。 もともとは4人部屋だったところを建具で仕切って個室のようにしているという造りのお部屋もあって、建具は天井に「つっぱり棒のデカいやつ」のような感覚で固定されている為、部屋の天井に近い部分はツーツーになっている。 発症されたかたはその4人部屋のかただった。その造りが災いし、発症した1名のかたと同室の3名のかたが『濃厚接触者扱い』になった。 『感染者』は、たまたま空いていた個室に移動して頂き、個別対応。同室ということで『濃厚接触者』になられたかた3名をそのままのお部屋で見させて頂く。 お昼間は職員がまだ多く出勤している為、感染者・濃厚接触者の対応をしてもどうにか業務が成立するが、問題は夜間帯。 夜勤者が1名で対応するのがかなりの負担になる。 感染対応をしているかたのお手伝いをする際には、感染防護具(マスク・フェイスシールド・ガウン・手袋・キャップ)を着て脱いで、また別のかたの対応で着て脱いで、を延々繰り返すことになる。 その方以外にも、普通に生活をしておられる入居者さんの対応も当然あるので、まぁようするにいつもの夜勤よりもかなりのキツさなのだ。 そこで、『感染者』と『濃厚接触者』のかたのみの対応をする、”+1名の夜勤者”をシフトに組み込むことになった。 その分、日勤者が少なくなるのは言うまでもないので、普段はシフトに1人としてカウントされていないぼくも夜勤に入ることにした。 初めて入居者さんから感染者が出て2日目、濃厚接触者のかたのうち2名が高熱を出し、検査の結果は陽性。感染者が3名になった。 濃厚接触者の残る1名は終日寝たきりで他のかたとの接触がほぼないことからお部屋の移動はせずにそのままのお部屋にいて頂くことになった。 2日目にして感染者3名・濃厚接触者1名の対応を引き続き行う。 次の日。フロアの職員から新たに陽性者1名。 さらに次の日。 職員1名、また別の居室の入居者さん1名が陽性。 この日も夜勤に入る。 そして次の日の夜勤明けで、ぼくは寒気を覚えた… 一番大変なタイミングで療養生活に… おうちに帰り、熱を測ると37.6℃。これはマズい。 すぐに調べて医療用の抗原検査キットを販売している最寄りのドラッグストアへ走る。ヒヤヒヤしながら検査をするとマイナス。 「よかった~」と思いつつもしんどいので、とりあえず昼寝。 そして… 夕方に起きたら39.6℃まで上がっていた。 すぐに施設へ連絡し、看護部長に状況を伝えると、『みなし陽性』ということで『感染者』と同じ扱いで、仕事を休むよう指示を受けた。 気分は最悪だった。 身体のしんどさとかより、めちゃくちゃ大変な時に介護部の責任者として現場に立てないことのツラさに押しつぶされそうになった。 だが、きっと感染しているであろう状態で出勤して、感染拡大させるわけにもいかない。「仕方ないことなんだ」と自分に言い聞かせた。 家族にも伝え、家庭内隔離をしてもらうことにした。ここでは施設での経験が大いに役立った。 結局、翌日の再検査で陽性が判明した。 陽性が確定することで、ホテル療養を申し込むことが出来た。 息子が大学受験、娘が高校受験の大詰めを迎えていたので、家にぼくがいて感染させるわけにはいかない。 そして翌日から1週間、ホテルでの療養生活がスタートした。 ホテル療養中にも、感染は拡大の一途をたどる ぼくの病状はホテルに行ってから5日目くらいまで微熱が続いていたが、寝込んでしまうほどのしんどさではなく、本を読んだり、パソコンしたり、テレビやYoutubeを見たりする余裕があり、むしろ快適だった。 そんな中で、施設で頑張ってくれているフロア主任と定期的に連絡を取っていた。その内容は悲惨なものだった。 毎日のように入居者さんの感染者が増えていき、それに伴い、同室のかたの濃厚接触者もまた増えていく。 対応してくれている職員もじょじょに感染していき、他フロアや、法人内の他施設から何名かヘルプに来てもらってなんとか業務をこなしているといった状況であった。 なかなか終息のメドが立たない状況で、それでも介護・看護が力を合わせて対応してくれている。 その中に自分がいないことの情けなさ。 この時ほど、自分の非力さを呪ったことはなかった。 ぼくが復帰するまで、なんとか耐えてほしい。復帰したら思いっきり働くからなんとか!という祈るような気持ちだった。 そして1週間… 復帰したぼくを待っていたのは、想像を超える現場の惨状であった。 それでも終わりはくる まるで戦場だった。 報告は受けていたが、まさかこれほどとは思ってもみなかった。 山積みの感染防護具、廃棄用ゴミ箱、消毒液。フロアに誰もいない。陽性者だらけでみなさん居室隔離。職員1人にかかる負担がヒドい。 「熱あります!」「検査して!」「陽性でした!」が当たり前。終わりの見えないトンネルに閉じ込められた気分だった… 主任はぼくの顔を見て安心したのか、ぼくが復帰した翌日に陽性になり、バトンタッチで休むことになった。あとはぼくが主任に代わってなんとか凌いでみせる番だった。 とりあえず、どの入居者さんがいつ感染対応解除になるのか、どの職員が自宅療養を終えて出勤できるのかを、1つずつ整理していきつつ、これ以上の拡大を防止すれば『あと〇日で完全に終息する』というのを明確にし、そこを目指して対応の徹底を改めて確認し合った。 入居者さんにしろ、職員にしろ、「熱がある」と聞くだけで「ビクッ」としてしまう。それでも「いや違う違う」と言い聞かす。 そんな気休めみたいなことばかり考えつつ、目の前の業務をひたすらこなしていると、なんとかピークが過ぎ、新たな陽性者が出ないという状況になってきた。自宅療養していた職員も少しづつ戻ってきた。 えらいもので、『感染者』や『濃厚接触者』の感染対策がみんなカンペキにできるようになっていった。通常の業務よりもいくつもやるべきことが増えたが、それすらも普通にこなせるようになってきた。 じょじょに入居者さんの対応が解けていく。職員の人数が元に戻っていく。 長かったトンネルの終わりが見えてくる。 そしてついに… 最初の感染者が出てから約1ヶ月半ほどで、感染の対応が必要なかたがゼロになった。 ほんとに長かったし、終わりが見えなかった。 ぼく自身も途中、離脱してしまって悔しい思いもした。それでも終わりがきたのである。 感染対応の物品を最後に撤収させた時、両手を広げて「終わったー!」と言ってしまった。 みんなも同じ気持ちだったように思う。 ほんとに過酷だった。それでも終わるんだなって思った。 これからも感染症と付き合っていかなければならない 振り返ってみると、職員がコロナに発症してしまったことは仕方がないし、そこから入居者さんが感染したことも防止できなかったと思う。 だが、施設内で感染が拡大してしまったのは、出来ていると思っていた対応が正確にきっちりと出来ていなかった事が原因ではないかと思う。 感染防護具の着脱や感染ゴミの扱い方など、最初からカンペキだったかと言われると、ぼく自身もはっきり言って自信がない。 今回のコロナクラスターの経験はとても厳しいものだったが、これで終わりではない。 コロナが2023年5月より『5類』という分類になり、これまでのような規制が緩和される。 だが、コロナがなくなるわけではないし、まだ見ぬ未知のウィルスが新たに発生するかも知れない。それでもぼくたちはそれらと共存していかないといけない。 その為にも正しい知識で適切に対応することがいかに大事かということを、今回の経験からは学んだ。 それにしてもキツかったぁ~!

  • 入浴拒否のYさんの心がゆるんだ話

    1ヶ月間、お風呂に入ってくれないYさんは、認知症の全くないおばあちゃん。「前におった施設でめっちゃ怖かってん」とのこと。 毎日お風呂にお誘いするが「やめとくわ」と拒否される。夜、パジャマに着替える時に、ちょこっと身体を拭かせて下さる程度。 どんな怖い思いをしたの?には「・・・」と無言になり、答えて下さらなかった… 入浴拒否の原因がつかめない 認知症が全くなくて普通に日常の会話が成立するYさん。 車椅子をご自分の足で漕いでフロア内を自由に動かれたり、手先が器用で洗濯物たたみなどのお手伝いを自ら職員に声をかけてして下さるくらい、しっかりされたかただった。 入居してから1ヶ月、周りの入居者さんとはあまり馴染もうとされなかったが、職員とはすぐに馴染んで仲良くなられた。 Yさんは手すりを掴んで立つことも出来るが、膝に力が入らずに数十秒で膝折れしてしまうので、トイレのお手伝いが必要だった。 だが、男性職員でもその介助はさせて頂けていたので、入浴を拒否されるのは「恥ずかしさ」ではないのはわかっていた。 つまり、ご本人がおっしゃるように、ほんとに「前にいた施設で怖い思い」をされたのだと思う。 入居されて以来1ヶ月間、誰がいつお声掛けさせて頂いても、入浴だけは絶対にして下さらなかった… 各部署の職員が集まってカンファレンスを開き、どうすれば入浴して下さるのかを話し合ったが、いい答えは出てこなかった。 突破口をこじ開けた、ある女性職員の行動 そんな状況の中、Yさんが特に心を許してる女性職員が、突然なにを思ったのか、洗面器にお湯を入れてYさんの居室に入って行った。 「お風呂に入るのが怖いのはわかりました。でもちょっと手をつけるだけです。やってみませんか?」Yさんはこの提案を受けてくれた。 女性職員はお湯の中でYさんの手のひらを優しくマッサージしたそうで、そのことを「すごく気持ちよかった」と喜んでおられた。 洗面器での『手浴』を何度かされた後、その流れで、次にその女性職員は『足浴』(洗面器でする足湯のようなもの)を提案。Yさんは「あんたがやってくれるんなら」と快諾された。 足浴も気持ちよかったらしく、「これええわ~」と大きな声で喜ばれた。手浴も足浴も2人きりの時間。何度も繰り返し行うことで、Yさんと女性職員の関係性がどんどんできあがっていく… そうこうしていると、突然、「シャワーやったらしてもええかな」とYさんからの申し出があったとのこと。 「もちろんあんたがやってな」とのオーダーだった。 女性職員はものすごい勢いで「部長!聞いて下さい!」と、報告に来てくれた。その時の嬉しそうな表情が忘れられない。 入居されて以来、入浴を拒否され続けてきたYさんがお風呂に入られる。 このことは施設全体の大きなニュースになった。 ただし、いろんな人が声をかけることでご本人の気持ちが変わってしまったらよくないので、全部署の責任者が集まり、Yさんにその話をしないということを全職員に統一することで意見を一致させた。 というわけで、Yさんとの話は女性職員だけが窓口になることになった。 Yさん入浴大作戦 女性職員が事前にお聞きしていた、Yさんの希望される入浴の時間は朝一番。「他の人の入った後の、濡れたお風呂場に入りたくない」とのこと。 他の入居者さんには申し訳ないが、その日はYさん以外のかたの入浴を午後からにして頂くことにした。 どのくらい時間がかかるかわからないので、2人が焦らず、ゆっくり時間を使えるようにお膳立てをしたのだ。 初日はほんとにシャワーで身体を流すだけだった為、その時間はすぐに終了した。Yさんは見たことのないような笑顔で、「あ~気持ちいい!」を連呼されていたそう。 ただし、身体を拭く段階で女性職員はちょっとした違和感を覚えたとのこと。 Yさんはシャワーで濡れた身体をバスタオルで拭かせて頂く際に、身体の部位を指さして「ここ」、「次はここ」と指定してこられたというのだ。 とりあえずその通りに拭かせて頂き、さらに髪の毛は洗っていなかったのでそこまで時間もかからずに終えることができた。が… 2回目のシャワーの日は身体をボディソープで洗わせて頂けた。 3回目では洗面器にためたお湯でお顔を自ら洗われた。 4回目で髪の毛にシャワーをかけさせて頂けた。 という具合に、少しずつ「Yさんのお風呂への恐怖心」がやわらいでいく毎に、させて頂けることが増えてきた。 その後、何度目かの時に髪の毛をシャンプー・リンスで洗わせて頂くことができ、さらに湯舟に使って頂くこともでき、ついに「普通の入浴」をして下さるようになった。 と、段階を経ていく毎に、Yさんの細かい指示もエスカレートしていった… 「普通の入浴」ができた日に要した時間は約1時間。Yさんとの関係性を築き上げてきた女性職員でさえ、あまりの細かい指示にぐったりしていた。 それもそのはず。洗う順番、流す時のシャワーの圧、湯舟のお湯加減、湯舟に浸かる時間、身体を拭く順番などなど… ただ、この女性職員がすごかったのは、入浴介助後すぐに場面場面を思い出しながら、手順をメモっていったこと。 そして、Yさんの入浴の前になるとそのメモを読み返し、じょじょにYさんの指示がくるよりも先にできるようになっていったのだ。 そうしてYさん専用の『入浴介助マニュアル』が完成したのである。 そこまで全てこの女性職員が対応してくれた後、それからはYさん了承の元で、女性職員が他の職員を連れてYさんの入浴介助に入らせて頂き、マニュアルの内容を伝授していった。 ぼくも教えてもらったが、まぁ細かいこと細かいこと。結局、全部覚えきれなかったくらいであった。 だが結果的に、フロアの職員全員がYさんの入浴を担当させて頂けるまでに至った。 Yさんの入浴時間は、浴室にお連れしてから髪の毛をドライヤーで乾かして浴室を出るまでで約30分にまで短縮することができた。 Yさんが朝風呂に一番で入るのは変わらなかったが、Yさんの為に他のかたに午後まで待って頂くといったことはなくなっていった。 しかも、思わぬ副産物までついてきた。 フロアの職員全員が、Yさんだけでなく、他の入居者さんへの入浴介助についても、これまで以上に丁寧に出来るようになったのだ。 入居から約3ヶ月、Yさんの『お風呂への恐怖心』を少しずつ溶かしてってくれたこの女性職員のこと、ほんとに尊敬しています。 入居者さんお一人お一人にとことんこだわって、最善の方法を探すことの大切さを後輩から教えてもらいました。 最初になんで「手浴」をしようと思いついたのか?を聞いてみましたが、「なんとなく」だったそうです。 ぼくだけが知っていたYさんのナイショ話 実は、女性職員が最初に洗面器を持ってYさんの居室に入っていった時、ぼくはすでに勝利を確信してました。 まだ入浴を拒否されていた頃、Yさんがぼくだけに、「誰にも言わんといてな…」とぶっちゃけてこられたことがあったからです。 15年の時を経て、Yさんとの約束をやぶって発表しちゃいます。ぼくにだけ打ち明けてくださったナイショ。それは、 「ほんまはお風呂、好きやねん」でした。 結局、Yさんの恐怖心の理由はわからずじまいでしたが、そこに触れる人は誰もいませんでした。 おわりに 15年の介護の管理職歴でつちかった知識や経験なんかを、ほっこりおもろい感じで発信しています。 暗いニュースばかりが目立つ介護業界ですが、介護職は「カッコよくてやりがいがある仕事」だって思って頂けるように、発信を続けたいと思います。

  • おばあちゃんが壊れた日。おばあちゃんの最期から学んだこと。

    大好きだったぼくのおばあちゃんの晩年は、認知症の幻覚がひどかった。「家に知らん女があがりこんでる」「ベッドの下にヘビが入りよった」「身体中から虫がわいてくる」と騒ぎ立てる毎日。 日に日に、自宅で介護することが困難になっていく…   おばあちゃんっ子だったぼくの家庭環境 ぼくは生粋のおばあちゃんっ子だった。 生まれた時から一緒に暮らしてたおばあちゃんは、オヤジの母親。 オヤジ・おかん・ぼく・妹・おばあちゃんの5人家族。小さい頃から共働きだったぼくの両親に代わり、ぼくと妹はおばあちゃんに育てられたと言っても過言ではなかった。 小学1年生から引きこもりだったぼくは、極度の人見知り。どこに行くにも何をするにも、いつもおばあちゃんがいてくれた。 ぼくは小学校の高学年になるまで、おばあちゃんの二の腕を掴んでないと寝れないような子だった。 小学5年の時、オヤジの経営する会社が倒産し、一気に貧乏生活に突き落とされた。オヤジもおかんも借金返済に追われ、家のことはますますおばあちゃんが1人でやっていた。 そんな状態であるにも関わらず、オヤジは女性にだらしがなく、社長時代の金銭感覚を修正することはなかった。その事がきっかけで、おかんとの関係がどんどん悪化し、後に妹だけ連れて出ていくことになる。 おばあちゃんは息子が可愛いので、オヤジを責めるのではなく、なぜかおかんに対して厳しく当たっていた。そのことも、おかんが堪忍袋の尾を切る原因になった… おばあちゃんが認知症を発症 借金返済生活が15年ほどで完了し、おかんと妹も家を出て、ぼくも結婚して家を出て、それからおばあちゃんは息子であるオヤジと2人暮らしになった。 家賃がもったいないので、実家を引き払いオヤジと2人で小さなアパートに引っ越したのだ。それからほどなく、おばあちゃんは認知症を発症した。 タクシーの運転手だったオヤジは夕方に家を出ると翌朝まで帰らない。それまでおばあちゃんは家に1人。オヤジは帰ってきてもご飯を食べてビールを飲んだらすぐに寝る。 起きたとしても部屋は別々。おばあちゃんは誰ともしゃべらず、ひたすら毎日、テレビの前に座ってるという生活だったのがよくなかったのだろう。 ぼくもちょくちょくおばあちゃんの様子を見に行ってたし、子供たちを連れて遊びに行ったりもしていたが、大した刺激にはならなかったんだと思う。 すでに介護職だったぼくは、認知症が発症してからは頻度を上げておばあちゃんちに通っていたし、オヤジが2日ごとに夜間不在になるので、その日に泊まったりもしていた。 でもやはり、自分の家庭も仕事もあり、お世話するにも限界があった。 日中、家にヘルパーさんに来てもらうようになった。生活のお手伝いと話相手。デイサービスにも通うようになった。 人には「ええ顔」をするタイプのおばあちゃんは、「知らん人が家に来るの嫌や」「知らん人ばっかりおるとこに行くの嫌や」とぼくとオヤジには文句を言いながらも、ヘルパーさんともデイサービスのみなさんともすぐに馴染んでいた。 おばあちゃんの幻覚症状が出るのは、家に1人でいる時。 ぼくが家に行ってみると、ちょうど幻覚を見てる時ってことも多かった。「子供が家中、走りまわりよる」「さっきから女がこっち睨んできとる」「また服の中に虫が入ってきよった」とわめき散らす。 オヤジは自ら語らなかったが、おそらくおばあちゃんを殴ってた。オヤジに聞いても「そんなことするわけないやろ」と返ってきたし、おばあちゃんに聞いても息子をかばうのか「そんなことされてない」との返答しかなかった。 ぼくも、自分の生活を削っておばあちゃんのお世話に行っていたのだが、それがだんだん嫌になっていった。 認知症はどんどん進行していく。最初の頃からお世話になってる馴染みのヘルパーさんに悪態をつき、デイサービスの送迎員さんを殴ろうと暴れ、ヘルパーさんの利用もデイサービスの利用も、徐々に先方から難色を示されるようになっていった。 老人ホームへの入居を真剣に悩んだが、ぼくとオヤジが2人でいくらふり絞ってもお金の面で厳しく、なにより、同じ介護業界の人間の見解として「悪さ」をするおばあちゃんはどこからも断られると思ってた。 そんな矢先、心配していたことが起こる… 在宅介護を諦めた事件 ある日の夜中、「〇〇(オヤジの名前)が埋められてる!」と叫びながら、おばあちゃんは、アパートの壁を杖でドンドンと叩きまくり、警察沙汰になる。隣の方に通報されたのだ。 連絡を受けて急遽帰宅したオヤジは、アパート前に止まるパトカーと、野次馬の人達の群れ、警察官にさえ喰ってかかってる鬼の形相のおばあちゃんを見たとのこと。 おばあちゃんはオヤジの顔を見て落ち着いたそうだが、警察官から「しっかり見てあげて下さい」と注意を受けた。 翌朝オヤジからの連絡を受けたぼくは、急遽仕事を休んでおばあちゃんを連れ、主治医である認知症専門のDr.を受診。家庭事情を含め説明した上で相談すると、その場ですぐに調整して下さり、翌日には緊急で精神科の病院に入院させてもらえることになった。 心底ホッとした…。 オヤジもぼくも、お金の不安はかなりあったが、そんなことを言ってる場合ではなかった。 おばあちゃんの最期の日々 翌日も引き続き休みを取り、オヤジと一緒に家から約1時間ほど離れた山手のニュータウンの脇にひっそりと佇むA病院におばあちゃんを連れていった。 おばあちゃんは車から降りて病院に入ったところで表情が豹変し、急に凶暴になった。その状態で院長先生との面談に3人で臨んだ。 おばあちゃんが「あんたはキツネが化けとるんや!」と叫びながら院長先生を杖で突こうとしたところで看護師3名に押さえつけられ、車椅子で奥に連れて行かれた。 オヤジと2人で平謝りし、その後に入院の手続きなどを行い、最後に病室に通された時にはおばあちゃんは眠ってた。 1階のロビーから病室まで案内されたのだが、病棟の玄関では施錠されているドアを2か所通った。さらにおばあちゃんの病室にも鍵がかかっていた。 病室前の廊下ではベッドごと出されて眠っている方や、車椅子と腰ベルトでつながれている方などを目撃した。自分が勤める施設とあまりに違う光景に衝撃を受けた…。 「こういうところにおばあちゃんを置いていくのか…」 そう思いながらもぼくは、介護士でありながらおばあちゃんの介護を放棄した… よく「介護の仕事って大変ですよね」と言われるが、おうちで家族介護されているみなさんの苦労を思うと、軽々しく「そうなんですよ」なんて言えない。他人だからこそ冷静に、余裕を持って、その人のお世話をさせて頂けるんだと思う。 家族介護を何年もされたかたのお話を聞くたび、尊敬の念を深く抱く。ほんとによほどの覚悟がないと出来ないし、自分が壊れてしまってもおかしくないと思う。 だからこそ、家族介護を頑張っておられる方には、少しでもぼくたちのようなプロの介護士に頼ってほしいと伝えたい。そしてぼくは、頼られるプロになりたいと思う。 生きてるおばあちゃんを見た最後は、お見舞いに行った時だった。看護師さんに頭を撫でられ、気持ちよさそうに眠ってる姿。 陽に当たり、全ての苦痛から解放されたような穏やかな表情が、「家でお世話できなかった」というぼくの罪悪感を消してくれた。94歳の誕生日を迎えた春のことだった。 どれだけ穏やかに関わっても、認知症による暴言暴力が全く治まらないかたもいる。高齢者施設によっては「精神科の病院への入院」を良しとせず、ただ耐えることを方針とするところもある。 だが、介護する側にも限界がある。時にはそういった病院や薬に頼ることも必要であると、おばあちゃんのことがあったからこそ、考えるようになった。

  • 介護職のやりがいを教えてくれた人!18年間介護士を続けられる理由とは?

    Mさん(女性)は施設入居時から寝たきりではありましたが認知症は全く有りませんでした。施設入居初日に、ロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫。 それからずっと全てを拒否。食事、水分摂取、入浴、更衣、オムツ交換、そして会話。車椅子からベッドに移る際に激しく抵抗され、壁のほうを向いたままで、職員みんなが困ってた…。   介護士としてのデビュー ぼくが介護士になったのは29歳の時。 それまでは主に家庭の事情で、少しでも高い収入を得る必要があった為に、あえて正職員に就かずに、朝から晩までアルバイトを掛け持ちして収入を得ていた。 家庭の事情が落ち着き、結婚もしたので、そろそろ正職員として勤務をしようということになり、当時『ホームヘルパー2級』という資格を1ヶ月半ほどで取得したのちに初めての就活をした。 そしてすぐ、自宅近くに新設される『住宅型有料老人ホーム』にオープニングスタッフとして採用されたのである。 開設1ヶ月前に召集された介護職員の内訳は次の通り。 系列の高齢者施設から異動して来られた男性の主任さんと、オープニングスタッフの中から抜擢された2人の副主任。 2名ほどの経験者と、10数名の未経験者。 そのほとんどが高校や専門学校、大学を卒業したばかり。 ぼくはその中では圧倒的な最年長だった。 そして抜擢された副主任の2人は、介護経験豊富な女性と、 「社会人経験が豊富」なだけの僕だった。 未経験なのにいきなりの副主任…プレッシャーが半端じゃなかった。   初めての入居者さんが介護拒否 1ヶ月の開設準備期間を経て、いよいよオープン初日。初めて入居してこられたかたが、冒頭のMさんだったのだ。 病院の送迎車からストレッチャーに寝た状態で降りてこられたMさんは、施設のロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫された。 初めての入居者さんをお迎えしていた施設の全職員が唖然とする中、介護主任とぼくじゃないほうの副主任がMさんの元に駆け寄る。 なだめるように話しかけるが、聞く耳を持たれず、両手をバタつかせて抵抗されたので、送迎に同行されていたヘルパーさんも加わり、なんとか施設で用意していた車椅子(リクライニングタイプ)に移って頂いた。 その間も絶叫は続いていたが、お構いなしに送迎の方々は戻っていかれた。 車椅子を主任が押して、居室に案内する。ぼくたちは全員でついていく。それから居室のベッドに移って頂くのも3人がかり。 その時に初めて、ぼくは高齢者のかたの介助をさせて頂いた。そして思いっきり、腕に爪を立てられてキズを負わされた。 それからというもの、Mさんは、職員が少しでも身体に触れようものなら、ひっかくわ、噛みつくわ。飲まず食わずで3日間。時には大声、時には無視で、介護拒否を続けた。 さすがに3日目には、脱水を危惧した施設のDr.が点滴を試みたが、それも思いっきり暴れて拒否。「これだけ元気ならまだ大丈夫」と、Dr.の指示で様子を見ることになった。 Mさんは「要介護5」のかたで、認知症は全くないが、下半身に全く力が入らず寝たきりの状態。両腕は動かせるが、脇を半分開けることができる程度しか上げれず、また指が変形しているので上手くものを掴んだりできない。 オシッコは『バルーンカテーテル』という管につながれていて、流れ出てパックにたまったものを介護者が定期的に破棄する。ウンチはオムツ内にするよりないが、便秘傾向なので、下剤を服用して4〜5日ごとに出るかどうかという感じであった。 要するに、生活全般に介護が必要な方なので…。 このままずっと介護拒否が続くと、ほんとに大変なことになる。 介護士、看護師、ケアマネジャー、相談員など、多職種みんなでカンファレンスで話し合うもいい対策案は出ず。入院していた病院に問い合わせても、そんなことはなかったとのこと。 かたくなな心を溶かした作戦 徹底抗戦の構えから4日目の夜勤がぼくだった… 夕方に出勤し、Mさんの情報を日勤の職員に確認すると、その日も朝から何も口にせず、全て拒否が続いているとのこと。 夕食は18時から提供開始。衛生的な観点から食事は2時間以内に召し上がって頂くのが施設のルール。 Mさんの居室に運び、お声掛けするも無視。すべてのお椀にフタをした状態でお盆ごとテーブルに置いて一旦、退室する。 今日も食べてくれないのか… そう思いつつ19時、再度、Mさんの居室へ。 壁のほうを向いて寝ている背中に話しかける。 「Mさん、お腹へってないんですか?」「のど乾いてないです?」 …返事はない。 そこでぼくは(なぜそうしようと思ったのか全く覚えていないが)ペットボトルを取りに行き、 「のど乾いたから、ぼく飲みますね~」と言った後、 グビグビグビグビ~って思いっきり音を立てて飲んでみた。 そして、「あぁうまぁぁ!」と大げさに言ってみた。 すると、 “ぐぅ~~~っ”とMさんのお腹の虫が鳴いたのだ。 「ん?今のなんです?なんの音です?」と、詰め寄る。返事はない。 が、肩が揺れていることに気付いた。 わざと沈黙で間を取ったあと、Mさんの寝ておられるベッドのブレーキを外し、壁からベッドを離して身体を入れることの出来るスキマを作った。 そのスキマに入り、 「今のぐぅ~~~ってなんでした?」と言いつつ、壁のほうを向いてるMさんの顔を覗き込むと、目と口をギュッとして笑いを堪えてた。 「めっちゃ笑ろてますやん」とツッコむと、よけいに目と口をギュッとして堪える。全身が揺れている。 「Mさん、ぐぅ~~~~って聞こえませんでした?」って、肩に手を当てて言ったと同時に我慢しきれず大爆笑! 「あっははははははははは!!」 すかさず、「飲みます?」とお聞きすると、「うん」と笑顔で返して下さった。4日間で初めて見せて下さったその笑顔が可愛すぎた。 ペットボトルにストローを指し、お口元へ持っていくと、ポカリをゴックンゴックン一気飲みされた。それから「夕食も食べます?」とお聞きすると、「お腹がへってるから食べさせて」と言って下さった。 ベッドの頭側を上げて食べやすい姿勢になって頂き、ぼくの食事介助で召し上がって頂くと、パクパクと平らげて下さった。 途中で様子を見に来たもう1人の夜勤職員が、食事しているMさんを見て「え~~~?!」ってビックリしながら笑ってた。ぼくは副主任らしいことが初めて出来たことで、きっとドヤ顔をしていた。 拒否の理由と、介護という仕事のやりがい 食事しながらMさんは悲しそうにぼくに言った… 「この施設に入るって家族に言われてなかったんや。退院したら、自分のおうちに帰れるもんやと思ってた。おうちで家族が面倒見てくれるもんやと思ってた…そしたら、病院から車に乗せられても、家族のもんが一緒に乗ってけぇへんし、降ろされたと思ったら、見たこともないホテルみたいなところやろ?それでわかったんよ。」 それから、 「…でも、あんたらに関係ないもんな。家族とはまた話をしたいけど…とにかく、来てからずっと意地はってごめんな。ありがとう」 と、笑顔で言って下さった。 ご家族とのことを考えると複雑な気持ちではあったが、『ありがとう』の言葉で、ぼくは全身に喜びがこみ上げた。 身体が不自由でオシッコも管がつながれた状態。ご家族の協力がないとおうちでは生活できないと理解されていたMさんは、拒否がなければめっちゃ可愛いおばあさんだった… 介護職は、入居者さん・ご家族両方の思いを引き受ける仕事であり、めちゃくちゃやりがいのある仕事であるとMさんから教えて頂いた。 この時のことが脳裏に焼き付いているからこそ、ぼくは介護職という仕事を18年も続けてこれているのだと思う。 出会った初めての入居者さんがMさんで、ぼくは運が良かった…。

  • 訪問介護事業所の気になる人間関係とは?関わる人たちや重要度をご紹介!

    介護の仕事をしている人は優しい人が多いけれど、実際のところ人間関係ってどんな感じか気になりませんか? 今回は実際に訪問介護事業所で働いたことのある筆者が、その人間関係についてお伝えします。 訪問介護の人間関係 今回は訪問介護の人間関係について、筆者の経験を織り交ぜながらお伝えします。 中には人間関係の生々しい部分も出てくるかと思いますが、ぜひ最後まで読んで頂けると幸いです。 訪問介護で関わる人たち 訪問介護は仕事をするときに、基本的に1人で移動して介護サービスを提供しています。 そのため仕事をしている時は、自分1人だと思いがちです。 しかし、実際に仕事をしていると色々な人と関わっていることに気づきます。 今までの体験を元に、実際に関わったことのある人を振り返ってみようと思います。 ①ご利用者様 まずはご利用者様です。 ご利用者様あっての、訪問介護なのでここは1番にあげました。 ②ご利用者様の家族 次によく関わるのが、ご利用者様の家族です。 もっとも訪問介護は、家族が在宅で介護をしているけれど、仕事やプライベートの用事で面倒を見れないときに頼むことが多いです。 そのため、ご家庭によっては、ほとんど家族と合わないところもあります。 しかし、家族が利用を決定しているところが多いので2番目にあげました。 ③事業所の管理者 訪問介護事業所の管理者へは、仕事をしている過程でも困った事があったときに相談することが多いです。 筆者は実際の現場で、会社貸与のスマホがあったため、常にスマホを使用し相談や解決策を聞いたりしていました。 その他にも、ご利用者様が行方不明になっていたり、自身がトラブルに遭って動けないときなど、困り事はすぐに相談する大切な存在でした。 ④事業所の同僚 事業所には複数の人員が配置されています。 筆者が最初に配置された事業所は、女性管理者1人、その年に入職した新卒の男性職員、ベテランの40代女性職員、50代の男性ケアマネジャー1人の合計4人でした。 その事業所は、会社の中でも立ち上げたばかりの事業所で、筆者はそこで即戦力として働いていました。 この事業所は、1年後に15人ほどの職員が務める事業所になりますが、当初は人員が本当に少ない事業所でした。 ⑤事業所の事務員 事業所運営において、職員のシフト管理や事業所の経費管理、現場の職員ができない影の部分で働いてくれる職員が事務員さんです。 この事務員さんがどのように動いてくれるかで、事業所の印象は大きく変わります。 基本的に大切な電話は、最初に事業所にかかってきます。 そのため、その事業所の窓口として、最初に対応してくれる大切なポジションです。 ⑥事業所のケアマネジャー 事業所運営の上で、ケアマネジャーは絶対に必要な人員ではありません。 しかし筆者が勤めていたところには1人いました。 ケアマネジャーは介護の知識はもちろんのこと、介護における法律の部分などにも精通しているため、話をしていて勉強になります。 話した内容が、実際の現場で役立つこともあるため、重要な立場の1人です。 ⑦訪問看護の看護師 訪問介護の現場で、ご利用者様の次によく会うのが訪問看護師です。 在宅介護では、医療的ケアを必要としている人も一定数います。 そのため、定期的に訪問看護のサービスを利用しているご利用者様のお宅では、定期的にバッティングする時があります。 その他にも、訪問看護師から訪問介護員に指導が必要となったときに立ち会う事があります。 自身の事業所にいる訪問看護師の時もありますが、他事業所の訪問看護師の時もあるので、筆者自身丁寧に対応することを心がけていました。 ⑧他事業所のケアマネジャー ご利用者様が介護を受けるときに、ケアプラン作成のために必要な職種がケアマネジャーです。 普段の仕事中はほとんど関わりませんが、介護ではサービスの見直しをするためにケアカンファレンスというものが開かれます。 そのときに各事業所がご利用者様の自宅に集まり、ケアプランの見直しを家族を交えて行います。 その際、あまりその回数は多くはありませんが他事業所のケアマネジャーと関わることもあります。 中でも重要なのは? 上で挙げた中でも、重要なのはご利用者様と事業所の職員、そして訪問看護師さんです。 1日稼働していく中でも、よく関わるのがこの3つの方達です。 では実際の現場ではどうだったかをお伝えしていきます。 ご利用者様との関係 いうまでもなくご利用者様との関係は、関わる人たちの中で1番大切です。 ご利用者様との関わり方次第では、出禁になることもあります。 これは実際にあった体験ですが、筆者とは別の訪問介護員の話です。 とある男性職員が、あるお宅に介護に行った時の話です。 介護を受けているのは、そのお宅にいる娘さんのお母さんでした。 後で聞いた話によると、その娘さんはお母さんをすごく大切に介護してきていたようで、当時最初に訪問した男性職員の介護が雑で耐えられなかったそうです。 そもそも、ご利用者様とその家族とも関係性を築けていない中での訪問だった為、仕方のないところはあるものの、そのような出来事が実際に起こってしまいました。 筆者自身も、あまり聞いたことはありませんでしたが、以来そのようなこともあるのだと知り、仕事を改めて丁寧に行うきっかけになったことを覚えています。 事業所の職員との関係 次に重要なのが、事業所の職員です。 訪問介護は勤務時間によって、まる1日事業所の職員と関わらずに終わる日もあります。 つまり、訪問件数と勤務時間によっては事業所の職員と関わることなく業務を終える職員もいます。 基本的に、仲のいい同期や先輩などを中心にいい関係の人が多かったのですが、中には意地悪な職員もいたりします。 筆者が経験した事業所の職員で、事業所の窓口である事務員さんとの関係に悩んだ事がありました。 もちろん印象の悪い人ばかりではないですが、筆者が関わった事務員さんは訪問介護員に非協力的な方でした。 そのため、緊急時は苦労もしましたが上司などに相談をして困難を乗り越えた経験があります。 その時の経験から、訪問介護の空いている時間に事業所の職員と食事をしたり、仕事の後すこし話をする事が、普段の仕事に関わることもある事を学びました。 訪問看護師との関係 訪問看護師は、介護士より知識があると言う自負からか、介護士を下に見る方もいます。 ありがたいことに筆者は、訪問看護師に恵まれたため苦労した経験はなく、悪い印象もありません。 しかし、他の職員の話だと馬鹿にされたり、本来看護師がするべき仕事を押し付けられたなどの話を聞いたことがあります。 本来介護は、看護師が行う仕事の一部を切り取り、看護師の負担を減らすのが目的で出来た仕事です。 両者ともに助け合って仕事をしたいものです。 人間関係が悪いのは本当? 介護の人間関係が大変だといわれるのは、関わる人が他の職場に比べて多いことです。 介護の仕事は上記に示した通り、数多くの人たちと関わりを持ちます。 年代も幅広く、さまざまな業種の人たちと関わることがあります。 お互いにきちんと理解しあわないと、人間関係がこじれてしまいます。 また、苦手な人と関わることもあるでしょう。 介護という仕事柄、さまざまな人たちと密なコミュニケーションを取らなくてはいけません。 介護士は人手不足であることが多く、数多くの業務を抱えています。 そのため精神的に余裕が無く、感情的になりやすいです。 したがって、人間関係で苦労する介護職の人たちが多いのは本当です。 人間関係をスムーズにするために 人間関係が悪化してしまうと、仕事へのストレスをさらに増やしてしまいます。 働きやすい職場にするためにも、人間関係をスムーズにし、職場の府に気を良くすることはとても重要です。 働きやすい職場することは、利用者へのサービスの向上や仕事の効率化にもつながります。 では、どのようにすれば人間関係を良くすることができるのでしょうか。 相手のことを考える そもそも他人は自分と異なる意見を持っていることが多いです。 まずは反発せずに素直に相手の意見を聞いてみましょう。 反論がある場合は、その後に自分の考えを伝えればよいのです。 忙しくても感謝と笑顔を忘れない 笑顔や感謝のない職場は全体的にピリピリした雰囲気になりやすいです。 それが人間関係を悪化させることにもなってしまいます。 どんなに忙しくても、相手への感謝や笑顔を忘れないようにしましょう。 人間関係が辛いときは? どうしても人間関係が辛いときは、誰でもよいので相談してみましょう。 ストレスがたまると仕事の効率が悪化するだけでなく、健康被害を起こすこともあります。 自分なりのストレス解消法を見つけることも重要です。 もしもどうにもならずに仕事が辛くなってしまったら、転職を考えるのも1つの手段です。 人間関係の良い職場を見つけるために 人間関係の良い職場を見つけるためには、いくつかコツがあります。 頻繁に求人をしているところは要注意 頻繁にしているところは頻繁に人が入れ替わっている可能性が高いので、職場の人間関係が悪いことが多いです。 求人の内容をよく確認し、職場見学するなどして十分にリサーチするようにしましょう。 全体的に元気がないところは要注意 気になる求人がある場合は、必ず職場見学に行きましょう。 利用者やスタッフに笑顔や会話がない場合、何かしらの問題があることが多いです。 雰囲気が嫌だと思ったら、そこで働くことはやめた方が良いかもしれません。 まとめ 訪問介護は1人で行える仕事として、施設型にはない魅力のある仕事です。 しかし実際は多くの人が関わって成り立っている仕事であり、助け合っていることを忘れてはいけません。 介護士に限らず、他の職種の人も介護職員が介護をして収入を得ている側面もあります。お互いが支え合い、いい事業所づくりをしてほしいです。  

  • 認知症のNさんの話。

      認知症のNさんは、ぼくが勤務する特別養護老人ホームに入居してこられた初日から 夕方になるとご自身で風呂敷にまとめられた荷物を手に フロア内をウロウロし始めるという徘徊行動を繰り返されていた。 繰り返される夕方の帰宅願望 介護職員が「どうされましたか?」とお聞きすると 決まって「おうち帰らなあかんねん」と言われ 出口を探して廊下を行ったり来たりされるのだ。 他部署の職員がエレベーターでフロアに上ってくると、入れ違いで そのエレベーターに乗り込まれ、1階の事務所まで行かれたこともあった。 杖でスタスタと歩かれるそのご様子は、普通のお元気なおばあさんなので そのまま玄関から外に行かれたら、老人ホームから間違って出てこられたとは 誰も思わないほど。 それがかえって危険だった。 1度ウロウロし始めると、”早くおうちに帰らないといけない”という焦りから こちらからの声掛けに全く耳を傾けて下さらず 「今日はおうちに帰る日じゃないですよ」 「外はもう暗いので明日にしましょう」とお伝えしても 「こんなところにいてる場合じゃないねん!」 「早く帰らせて!」と 不穏が募るばかり。 事務所まで行かれた際には、玄関の自動ドアが開くたびに 出て行こうとされるのを止めなければならず お話を伺いながら落ち着いて頂き 居室のあるフロアまでNさんに戻って頂くのに かなりの時間を要したほどだった。 緊急カンファレンス 緊急で、介護のフロア主任・Nさんの担当職員・看護師・ケアマネジャー 相談員・リハビリ職員などが集まり、Nさんのカンファレンスを実施。 ぼくも参加することに。 「夕方になるまでに没頭できるものをして頂く」 「精神的に落ち着かれる薬を飲んで頂く」 「何か気がまぎれるレクリエーションをして頂く」などの意見が出たが どれも長期的な対応方法であり、その日からすぐに効果のある方法は なかなか思いつかなかった。 結果、統一した対応として、お疲れになられて落ち着いてこられるまでは 下手にお声掛けして「火に油を注ぐようなこと」はしないでおこう、となった。 落ち着かれると職員の声掛けにも応じて下さるようになるので それを待つという方法である。 ただ、杖歩行で足腰もしっかりされているとは言え やはり転倒のリスクもあり、また、エレベーターへ乗り込まれる可能性も あるので、付かず離れずの対応が必要だった。 帰宅願望によるウロウロは夕方から始まるので ちょうど夕食の忙しい時間とカブる。 それが毎日。 人手も足らず、Nさんだけに付きっきりになれる職員はいない。 かといって、ウロウロされるがままだと、Nさんはますます不穏になられるし リスクもある… どうすればいいか糸口がつかめず、職員みんなが困ってた… 最も光り輝いていた時代 認知症のかたの中には、自分が自分でなくなっていくような感覚から 不安や不満、混乱、恐怖といったネガティブな感情を感じなくて済むように ご自身で現実とは違う世界を創り出し、そこに避難するというかたがおられる。 Nさんの場合は、ご自身の人生において最も光り輝いていた 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という世界に 意識を戻すことで、認知症のツラさから逃避しているのではないか。 だから 「主人や子供たちが帰ってくるまでに晩ご飯の支度をしないといけない」 という思いで、夕方からの帰宅願望が出現しているのではないかと推測。 その推測を元に、ぼくはある作戦に打って出る。 寄り添いながらの散歩 それは、普段から現場職員の1人としてカウントされておらず、いつでもフリーで 動ける介護部長という役職のぼくだからこそ出来ること… いつものように夕方の帰宅願望が出現し 「おうち帰らなあかん」とウロウロし始めたNさんのお顔を見ながら 「おうちまで送っていきますね」と一緒に施設を出た。 風呂敷にまとめた荷物を背負い、杖をついておうちに向かうNさん。 あたりをキョロキョロと見渡しながら、時に立ち止まり、時に急な方向転換。 車道にも出ていくのでヒヤヒヤする。 隣りにつきながら安全を確保し、なるべく穏やかに話しかけるが 「ついてこんでええ!」と大きな声で怒鳴られる。 歩行者や自転車のかたがこちらを怪訝そうに見ている。 こけそうな時など、すぐに手が届く距離で付いて歩き どっちに行けばいいか迷っておられるしぐさの時に話しかける。 少しずつ少しずつ、ぼくの言葉にも耳を傾けて下さるようになり 車通りの少ない住宅街のほうに誘導していく。 だんだんぼくの顔に安心される感覚が大きくなってくる… そんな散歩を約2時間。 あたりもだいぶ暗くなってきた頃、最後はヘトヘトで 公園のベンチに座り込まれた。 施設に電話して相談員に車で迎えに来てもらう。 Nさんにペットボトルのお茶を飲んで頂いて、それから車で一緒に施設に戻った。 他のみなさんは夕食を召し上がっておられた。 翌日も、夕方に「おうち帰る!」が始まる。 「送っていきます」「来んでええ!」という会話を交わしつつ 2人で一緒に施設を出る。 前日と同じようなコースの散歩。 公園のベンチに座ったのは約1時間30分後。 施設に電話して車でのお迎え。 さらに次の日。 1時間ちょっとの散歩で施設へ歩いて帰る。 日はまだ落ちておらず、夕焼けに染まったアスファルトに Nさんとぼくの影が並んで伸びていた。 散歩3日目にしてはじめて夕食前に帰ってこれたので なんとなくの思い付きではあったが 職員がしている夕食の準備を手伝って頂くことにした。 笑顔で「ええよ」とのお返事。 「おうちに帰る!」と言ったことはすっかり忘れておられた。 4日目の散歩は30分程度。 Nさんはまだまだ歩けそうだったが、途中で切り上げられるかも?と思い 「夕食の準備があるから帰りましょうか?」と声を掛けてみた。 すると、「そうやな。帰ろか」とのお返事。 5日目でついに、「おうちに帰る!」がなくなった。 ぼくが、「散歩行きませんか?」とお声掛けすると 「今から行ったら、この人らの晩ご飯に間に合わんがな」と笑顔で言われた。 それ以降、みなさんの夕食の準備をすることが、Nさんの日課になった。 夕方からの帰宅願望は、時折、思い出したかのように顔を出すこともあったが 「今からNさんが帰ったら、みなさんの晩ご飯に間に合わないですよ」と お伝えすると、「そやな。じゃあ明日にするわ」と笑顔ですぐに現実の世界に 戻ってきて下さるようになった。 この対応を職員全員で共有して統一した。 帰宅願望から自分の居場所へ Nさんがおうちに帰りたかったのは 「家族が帰ってくるまでに夕食の準備をしないといけない」という 妻として、母親としての思いがあったから。 そしてそれは、認知症により、自分で自分に違和感を覚え じょじょに自分ではなくなっていくことの不安や恐怖から自分を守る為に構築した 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という 世界で生きることを選択したことから生じた思いだった。 Nさんの世界に入って寄り添い、否定せず じょじょに「この人は安心できる人」と認識して頂くことで 落ち着いて頂くまでの時間を短くする。 穏やかな気持ちになられたところで、ぼくのほうからお願いし 他のみなさんの夕食の準備をお手伝い頂く。 そうすることで夕食の準備をする対象を 「家族」から「この人ら」に変換できたことで Nさんが構築した世界と現実の世界を結び付けて1つにすることが出来た。 そしてNさんから、夕方の焦りが消えていった。 Nさんはその後、「人の役に立っている」ことで、ご自分の居場所を見出され 職員のするいろいろな業務を笑顔で手伝って下さり その後、体調を崩されるまでの数年間をほんとにイキイキと過ごされた… 今から13年前のお話です。

  • 訪問介護は辛い?実際に経験した経験者の語った思いとは?

    訪問介護の仕事は楽しいこともあるけども、辛い事もあります。 今回の記事では、実際に訪問介護を経験した筆者が、その体験を基に辛かったことをお伝えします。 訪問介護の辛いところ 介護の仕事は人に感謝されるいい仕事です。 介護以外の仕事も経験してよりわかった介護の仕事の魅力は、他者からの感謝を本当の意味で受け取れるところに魅力があります。 そんな中「きつい、しんどい、きたない」と言われるこの仕事を、喜んでしたいと言う人が少ないのも現実です。 個人的には魅力的だと思える介護の仕事ですが、今回は筆者が体験した訪問介護での辛かった体験をお伝えし、その対応策も付け加えようと思います。 それでは始めていきます。 自転車移動が辛かった これはシンプルに訪問するための自転車移動が辛かったです。 都市部での訪問介護の仕事は、自転車移動が基本になります。 地方の移動距離が長い事業所なんかだと、車で移動するところもあるようですが、都心部での基本は自転車です。 自転車移動での足腰への負担は、1件1件の移動を毎日積み重なると大きく、なかなか辛い経験でした。 電動自転車になってからはかなり楽になりましたが、それ以前はまるで足腰を鍛える修行をしているような物でした。 また事業所によっては、1日の訪問件数が多いところもあります。 筆者は、割と短めのケアを複数訪問していたため、1日の訪問件数は平均して15件前後でした。 この数字は、訪問介護業界の方でないとピンとこないかもしれません。 参考までに、筆者が聞いた他事業所の訪問件数は、1日平均5件ぐらいが基本でした。 若い訪問介護員でも多くて10件程度だそうです。 私は毎日3倍走っていたことになります。 訪問介護はご自宅同士の距離が遠いこともあるため、件数が短くても距離が遠かったりしてその移動で疲れるという事もあります。体力に自信のある方や身体を鍛えたい方などにはよいかもしれませんが、そうでない場合は電動自転車をおすすめします。 ご利用者様との人間関係 これも筆者の訪問先にいたあるご利用者様ですが、そのお宅はお風呂とトイレが共同の家でした。 部屋は6畳1間で、家賃も1ヶ月1万円程度のお宅でした。 そこのご利用者様は、服薬確認と安否確認だけのサービスでしたが訪問するや否や罵詈雑言の嵐でした。 さらに提供したいサービスを受けてくれないものですから終わりたくても終われない事もしばしばでした。 最終的に何もせずに帰らざる終えない時もありましたが、このようなご利用者様もいました。 ただ全ての人がこのような人ばかりと言うわけではありません。 あくまで一部のご利用者様だけなので、今紹介したような方はごく稀です。 他にも訪問先でご利用者様の家族に手を握られたり、セクハラのようなことをされた時もあります。 そういう事があった時は、訪問介護が辛いなと思ったりもしました。 ゴミ屋敷への訪問 表現が難しいのですが、いわゆる衛生環境が極端に良くないお宅は一定数あり、その割合は少なくありません。 筆者が経験した訪問先で、訪問するたびにスリッパを使用して入室する訪問先がありました。 そのお宅はマンションのとある一室でしたが、廊下にいるだけで異臭が立ち込めてきて、部屋の中はゴミでいっぱいでした。 訪問介護サービスを利用すると言うこともあって、入り口や洗面台、トイレや浴室などの介護で使用する場所は多少掃除されていました。 しかし衛生的とは言えませんでした。 私たちもプロですので、その環境下で介護をしました。 他にも、訪問先のお宅の中を土足で入ることになっているお宅もありました。 このお宅は、訪問入浴のサービスがありお風呂だけはすごく綺麗だったのを覚えています。 しかしそれ以外は足の踏み場もないぐらいゴミ袋の山でした。 必ずしもそのようなお宅ばかりではないですが、そのような環境を見たことが無い筆者にとっては、なかなか衝撃的で辛い経験だったのを覚えています。 1人で仕事していること 元も子もない話ですが、1人で仕事をしていることが辛い時もありました。 訪問介護は、基本的に1人で介護をして1人で完結して訪問先を退出します。 ほとんどの場合、家族はおらずご利用者様1人の時が多いです。 例えばご利用者様にトラブルがあったり、その他のアクシデントなどは1人で対応しなければいけません。 また介護保険以外のサービスの要求をしてくるご利用者様や、そのご家族がいたこともあります。 そのようなときに全て1人で対応するという面が、施設型の介護と違う大変さでした。 他にも、筆者が1人の訪問で辛いと感じたのは、1日の中であまり会話がない時でした。 自立度が高いご利用者様だと会話を多く交わして退出できるのですが、自立度の低いご利用者様だと、失語症などの理由で会話をできずにサービスを終えてしまうことが多かったです。 職員にもよりますが訪問介護の場合、他の職員との会話もあまりないため、ご利用者様とその家族と会話をしない限り、会話をする機会がありませんでした。 そのため、仕事はしているけれど淡々と目の前の仕事をこなし続けていることを、辛いと思う時期が何度かありました。 もちろん職員全員に当てはまることではありませんが、少なくとも筆者はそのように感じる場面がいくつかありました。 訪問介護が辛いと思った時の対処法 訪問介護が辛いと思ったときは現状を変えるためにも以下のような方法をとると良いでしょう。 管理者に相談 例えば、訪問先のご利用者様からセクハラや、モラハラを受けている時はまず上司に話しましょう。 筆者は実際にそのようなお宅があったときに、当時の管理者に相談しています。 訪問介護員も人間ですので、辛いときは無理をしてはいけません。 筆者の場合正直にそのときの現状を伝えた結果、訪問先を変更してくれました。 他にも、自転車移動の距離が長く移動が辛いことも話しました。 改めて訪問先の見直しをしてくれて、結果的に移動がかなり楽になり体への負担が減りました。 介護は体を使う仕事ですので、他の負担は極力減らした方がいいですね。 困った時は、管理者に相談してください。 最初の課題解決の動きだしは、まずそこからかもしれません。 環境を変える 環境を変えるのも1つの手です。 筆者は異動や、転職は行いませんでしたが、他の職員で異動をして仕事環境が変わり、前よりイキイキと仕事をしている職員がいました。 会社の規模にもよりますが、社内で異動が叶うのであれば事業所を変えてみるといいです。 その行動だけで、世界が大きく変わってきます。 もし事業所を移動できなかったり、異動しても環境が変わらず辛い時は、転職も選択肢に入れてください。 訪問介護の事業所は、探せば多くあります。 できればご自身が働いたことが無い地域がいいかもしれません。 事業所の環境や、雇用条件など見るところは多くありますが、転職をして今以上に良い環境で働いている職員もいたため、1つの選択肢としておすすめです。 まとめ 今回、実際に働いた体験談をもとに、訪問介護で辛かったことをお伝えしました。 しかし、訪問介護は何も辛いことばかりではありません。 仕事をしていて楽しいことももちろんあります。 辛いと言う点も個人差があり、上に挙げたもの以外にも辛いと思うポイントはあるのではないでしょうか。 大切なのは、その環境下で自分自身がどうしたいかです。 それを考えられる記事になっていれば嬉しいです。

  • 親の老後の資金管理に3割以上が不安~多くの人が親と十分に話せていない現状が明らかに

    「スマート家族信託」を運営するトリニティ・テクノロジー株式会社(東京都港区)は、親の認知症による資産凍結リスクとその解決策である「家族信託」に関する意識調査の結果を公表しました。それによると、親の老後の介護や資金管理について3割以上が不安を感じている一方で、親の認知症対策や将来のことについて親と十分に話せていない方が多いことがわかりました。 この調査は、親が存命で親の現金預貯金額が2000万円以上ある45〜65歳の男女約1000人に対し、2022年5月27日から6月1日にかけて実施しました。 認知症によって意思能力が喪失し、銀行預金の引出しなどができなくなる資産凍結について知っていますかの問いに対し、「よく知っている」が24.1%、「聞いたことがある程度」が43.6%で、4人に1人がリスクを認識していました。 資産凍結が高齢化社会の大きな問題となるなかで、その対策として成年後見制度が生まれましたが、制度の利用者は頭打ちになっているのが現状だそうです。このため、家族間で信託契約を結び、家族に財産の管理を依頼できる制度として「家族信託」がクローズアップされてきました。 家族信託の認知度についての質問では、「制度を理解している」が26.7%だった一方で、39.0%が「聞いたことはあるが、どんな制度かは知らない」と回答しました。 また、「認知症による資産凍結のリスクについて、親とは話しにくいと思いますか」という問いでは、「非常にそう思う」「そう思う」が合わせて36.3%となり、「親の将来についてもっと話したいですか」の問いには、4割の人が「非常にそう思う」「そう思う」と答えています。 親の将来について不安に思うことでは、回答の多い順に「認知症」「老後の介護(時間面)」「老後の介護(費用面)」「遺産相続」「資産管理」などとなっていますが、回答者の3人に1人は資産管理に不安を感じていることも浮き彫りとなりました。 同社は「万が一に備えて親が元気なうちに対策を考えることは、家族全員の安心に繋がるのではないでしょうか。スマート家族信託を通じて、家族信託を全国に正しく普及させることにより資産凍結に悩む人をなくし、日本の巨大な社会課題を解決します」とコメントしています。スマート家族信託:https://sma-shin.com/(トリニティ・テクノロジー株式会社のプレスリリースより)

  • ヘルパーが直行直帰できない理由は「記録の共有」が最も多く~コロナ禍の訪問介護に関する調査で判明

    訪問介護専用アプリを手掛けているColibri合同会社(東京都中央区)は、訪問介護に従事している人を対象にした「コロナ禍における訪問介護」に関する調査の結果を公表しました。それによると、訪問介護先への「直行直帰」を行っていないと答えた人の半数以上が、出社しないとできなかった業務に「記録の共有」を挙げていることがわかりました。 この調査は、現場で働いている人たちがコロナ禍での訪問介護にどのような変化や悩みを持っているのかを聞きたいとして、2022年6月に訪問介護従事者(ヘルパー)1014人を対象にインターネットで実施したものです。 「2020年当時、直行直帰をしていましたか」の問いでは、「はい」が74・5%だったのに対し、25・5%の人が「いいえ」と答えています。その理由では、最も多かったのが「事務所で出社退社の記録をする必要があった」で、次いで「仕事に必要な用具や車両などを事務所に取りに行く、または戻す必要があった」「報告書を事務所に提出する必要があった」の順となっています。 直行直帰していなかった人に「出社しないとできなかった業務は何か」を複数回答で尋ねたところ、「記録の共有(51.4%)」「勤務時間の管理(42.9%)」「引き継ぎ(40.2%)」が上位を占めました。 また、「直行直帰と出社、選べるとしたらどちらがいいですか?」との質問では、6割以上の人が直行直帰と回答しています。回答者への詳しい聞き取りをした同社は「出退勤の時間短縮を望んでいる方に加え、コロナ禍ということもあり、できるだけ人との接触を減らす工夫として直行直帰を望んでいる方もいるようです」と分析しています。 そのうえで、調査結果について「出退勤記録や情報の共有など、オンラインを利用して行える業務を増やすことで、出社する手間が減り、直行直帰がかなうようになるかもしれません。ヘルパーの方々の負担を少しでも軽減するために、こうしたシステムの構築を行っていくことがカギとなりそうです」とまとめています。(Colibri合同会社のプレスリリースより)