1ヶ月間、お風呂に入ってくれないYさんは、認知症の全くないおばあちゃん。「前におった施設でめっちゃ怖かってん」とのこと。 毎日お風呂にお誘いするが「やめとくわ」と拒否される。夜、パジャマに着替える時に、ちょこっと身体を拭かせて下さる程度。 どんな怖い思いをしたの?には「・・・」と無言になり、答えて下さらなかった… 入浴拒否の原因がつかめない 認知症が全くなくて普通に日常の会話が成立するYさん。 車椅子をご自分の足で漕いでフロア内を自由に動かれたり、手先が器用で洗濯物たたみなどのお手伝いを自ら職員に声をかけてして下さるくらい、しっかりされたかただった。 入居してから1ヶ月、周りの入居者さんとはあまり馴染もうとされなかったが、職員とはすぐに馴染んで仲良くなられた。 Yさんは手すりを掴んで立つことも出来るが、膝に力が入らずに数十秒で膝折れしてしまうので、トイレのお手伝いが必要だった。 だが、男性職員でもその介助はさせて頂けていたので、入浴を拒否されるのは「恥ずかしさ」ではないのはわかっていた。 つまり、ご本人がおっしゃるように、ほんとに「前にいた施設で怖い思い」をされたのだと思う。 入居されて以来1ヶ月間、誰がいつお声掛けさせて頂いても、入浴だけは絶対にして下さらなかった… 各部署の職員が集まってカンファレンスを開き、どうすれば入浴して下さるのかを話し合ったが、いい答えは出てこなかった。 突破口をこじ開けた、ある女性職員の行動 そんな状況の中、Yさんが特に心を許してる女性職員が、突然なにを思ったのか、洗面器にお湯を入れてYさんの居室に入って行った。 「お風呂に入るのが怖いのはわかりました。でもちょっと手をつけるだけです。やってみませんか?」Yさんはこの提案を受けてくれた。 女性職員はお湯の中でYさんの手のひらを優しくマッサージしたそうで、そのことを「すごく気持ちよかった」と喜んでおられた。 洗面器での『手浴』を何度かされた後、その流れで、次にその女性職員は『足浴』(洗面器でする足湯のようなもの)を提案。Yさんは「あんたがやってくれるんなら」と快諾された。 足浴も気持ちよかったらしく、「これええわ~」と大きな声で喜ばれた。手浴も足浴も2人きりの時間。何度も繰り返し行うことで、Yさんと女性職員の関係性がどんどんできあがっていく… そうこうしていると、突然、「シャワーやったらしてもええかな」とYさんからの申し出があったとのこと。 「もちろんあんたがやってな」とのオーダーだった。 女性職員はものすごい勢いで「部長!聞いて下さい!」と、報告に来てくれた。その時の嬉しそうな表情が忘れられない。 入居されて以来、入浴を拒否され続けてきたYさんがお風呂に入られる。 このことは施設全体の大きなニュースになった。 ただし、いろんな人が声をかけることでご本人の気持ちが変わってしまったらよくないので、全部署の責任者が集まり、Yさんにその話をしないということを全職員に統一することで意見を一致させた。 というわけで、Yさんとの話は女性職員だけが窓口になることになった。 Yさん入浴大作戦 女性職員が事前にお聞きしていた、Yさんの希望される入浴の時間は朝一番。「他の人の入った後の、濡れたお風呂場に入りたくない」とのこと。 他の入居者さんには申し訳ないが、その日はYさん以外のかたの入浴を午後からにして頂くことにした。 どのくらい時間がかかるかわからないので、2人が焦らず、ゆっくり時間を使えるようにお膳立てをしたのだ。 初日はほんとにシャワーで身体を流すだけだった為、その時間はすぐに終了した。Yさんは見たことのないような笑顔で、「あ~気持ちいい!」を連呼されていたそう。 ただし、身体を拭く段階で女性職員はちょっとした違和感を覚えたとのこと。 Yさんはシャワーで濡れた身体をバスタオルで拭かせて頂く際に、身体の部位を指さして「ここ」、「次はここ」と指定してこられたというのだ。 とりあえずその通りに拭かせて頂き、さらに髪の毛は洗っていなかったのでそこまで時間もかからずに終えることができた。が… 2回目のシャワーの日は身体をボディソープで洗わせて頂けた。 3回目では洗面器にためたお湯でお顔を自ら洗われた。 4回目で髪の毛にシャワーをかけさせて頂けた。 という具合に、少しずつ「Yさんのお風呂への恐怖心」がやわらいでいく毎に、させて頂けることが増えてきた。 その後、何度目かの時に髪の毛をシャンプー・リンスで洗わせて頂くことができ、さらに湯舟に使って頂くこともでき、ついに「普通の入浴」をして下さるようになった。 と、段階を経ていく毎に、Yさんの細かい指示もエスカレートしていった… 「普通の入浴」ができた日に要した時間は約1時間。Yさんとの関係性を築き上げてきた女性職員でさえ、あまりの細かい指示にぐったりしていた。 それもそのはず。洗う順番、流す時のシャワーの圧、湯舟のお湯加減、湯舟に浸かる時間、身体を拭く順番などなど… ただ、この女性職員がすごかったのは、入浴介助後すぐに場面場面を思い出しながら、手順をメモっていったこと。 そして、Yさんの入浴の前になるとそのメモを読み返し、じょじょにYさんの指示がくるよりも先にできるようになっていったのだ。 そうしてYさん専用の『入浴介助マニュアル』が完成したのである。 そこまで全てこの女性職員が対応してくれた後、それからはYさん了承の元で、女性職員が他の職員を連れてYさんの入浴介助に入らせて頂き、マニュアルの内容を伝授していった。 ぼくも教えてもらったが、まぁ細かいこと細かいこと。結局、全部覚えきれなかったくらいであった。 だが結果的に、フロアの職員全員がYさんの入浴を担当させて頂けるまでに至った。 Yさんの入浴時間は、浴室にお連れしてから髪の毛をドライヤーで乾かして浴室を出るまでで約30分にまで短縮することができた。 Yさんが朝風呂に一番で入るのは変わらなかったが、Yさんの為に他のかたに午後まで待って頂くといったことはなくなっていった。 しかも、思わぬ副産物までついてきた。 フロアの職員全員が、Yさんだけでなく、他の入居者さんへの入浴介助についても、これまで以上に丁寧に出来るようになったのだ。 入居から約3ヶ月、Yさんの『お風呂への恐怖心』を少しずつ溶かしてってくれたこの女性職員のこと、ほんとに尊敬しています。 入居者さんお一人お一人にとことんこだわって、最善の方法を探すことの大切さを後輩から教えてもらいました。 最初になんで「手浴」をしようと思いついたのか?を聞いてみましたが、「なんとなく」だったそうです。 ぼくだけが知っていたYさんのナイショ話 実は、女性職員が最初に洗面器を持ってYさんの居室に入っていった時、ぼくはすでに勝利を確信してました。 まだ入浴を拒否されていた頃、Yさんがぼくだけに、「誰にも言わんといてな…」とぶっちゃけてこられたことがあったからです。 15年の時を経て、Yさんとの約束をやぶって発表しちゃいます。ぼくにだけ打ち明けてくださったナイショ。それは、 「ほんまはお風呂、好きやねん」でした。 結局、Yさんの恐怖心の理由はわからずじまいでしたが、そこに触れる人は誰もいませんでした。 おわりに 15年の介護の管理職歴でつちかった知識や経験なんかを、ほっこりおもろい感じで発信しています。 暗いニュースばかりが目立つ介護業界ですが、介護職は「カッコよくてやりがいがある仕事」だって思って頂けるように、発信を続けたいと思います。
大好きだったぼくのおばあちゃんの晩年は、認知症の幻覚がひどかった。「家に知らん女があがりこんでる」「ベッドの下にヘビが入りよった」「身体中から虫がわいてくる」と騒ぎ立てる毎日。 日に日に、自宅で介護することが困難になっていく… おばあちゃんっ子だったぼくの家庭環境 ぼくは生粋のおばあちゃんっ子だった。 生まれた時から一緒に暮らしてたおばあちゃんは、オヤジの母親。 オヤジ・おかん・ぼく・妹・おばあちゃんの5人家族。小さい頃から共働きだったぼくの両親に代わり、ぼくと妹はおばあちゃんに育てられたと言っても過言ではなかった。 小学1年生から引きこもりだったぼくは、極度の人見知り。どこに行くにも何をするにも、いつもおばあちゃんがいてくれた。 ぼくは小学校の高学年になるまで、おばあちゃんの二の腕を掴んでないと寝れないような子だった。 小学5年の時、オヤジの経営する会社が倒産し、一気に貧乏生活に突き落とされた。オヤジもおかんも借金返済に追われ、家のことはますますおばあちゃんが1人でやっていた。 そんな状態であるにも関わらず、オヤジは女性にだらしがなく、社長時代の金銭感覚を修正することはなかった。その事がきっかけで、おかんとの関係がどんどん悪化し、後に妹だけ連れて出ていくことになる。 おばあちゃんは息子が可愛いので、オヤジを責めるのではなく、なぜかおかんに対して厳しく当たっていた。そのことも、おかんが堪忍袋の尾を切る原因になった… おばあちゃんが認知症を発症 借金返済生活が15年ほどで完了し、おかんと妹も家を出て、ぼくも結婚して家を出て、それからおばあちゃんは息子であるオヤジと2人暮らしになった。 家賃がもったいないので、実家を引き払いオヤジと2人で小さなアパートに引っ越したのだ。それからほどなく、おばあちゃんは認知症を発症した。 タクシーの運転手だったオヤジは夕方に家を出ると翌朝まで帰らない。それまでおばあちゃんは家に1人。オヤジは帰ってきてもご飯を食べてビールを飲んだらすぐに寝る。 起きたとしても部屋は別々。おばあちゃんは誰ともしゃべらず、ひたすら毎日、テレビの前に座ってるという生活だったのがよくなかったのだろう。 ぼくもちょくちょくおばあちゃんの様子を見に行ってたし、子供たちを連れて遊びに行ったりもしていたが、大した刺激にはならなかったんだと思う。 すでに介護職だったぼくは、認知症が発症してからは頻度を上げておばあちゃんちに通っていたし、オヤジが2日ごとに夜間不在になるので、その日に泊まったりもしていた。 でもやはり、自分の家庭も仕事もあり、お世話するにも限界があった。 日中、家にヘルパーさんに来てもらうようになった。生活のお手伝いと話相手。デイサービスにも通うようになった。 人には「ええ顔」をするタイプのおばあちゃんは、「知らん人が家に来るの嫌や」「知らん人ばっかりおるとこに行くの嫌や」とぼくとオヤジには文句を言いながらも、ヘルパーさんともデイサービスのみなさんともすぐに馴染んでいた。 おばあちゃんの幻覚症状が出るのは、家に1人でいる時。 ぼくが家に行ってみると、ちょうど幻覚を見てる時ってことも多かった。「子供が家中、走りまわりよる」「さっきから女がこっち睨んできとる」「また服の中に虫が入ってきよった」とわめき散らす。 オヤジは自ら語らなかったが、おそらくおばあちゃんを殴ってた。オヤジに聞いても「そんなことするわけないやろ」と返ってきたし、おばあちゃんに聞いても息子をかばうのか「そんなことされてない」との返答しかなかった。 ぼくも、自分の生活を削っておばあちゃんのお世話に行っていたのだが、それがだんだん嫌になっていった。 認知症はどんどん進行していく。最初の頃からお世話になってる馴染みのヘルパーさんに悪態をつき、デイサービスの送迎員さんを殴ろうと暴れ、ヘルパーさんの利用もデイサービスの利用も、徐々に先方から難色を示されるようになっていった。 老人ホームへの入居を真剣に悩んだが、ぼくとオヤジが2人でいくらふり絞ってもお金の面で厳しく、なにより、同じ介護業界の人間の見解として「悪さ」をするおばあちゃんはどこからも断られると思ってた。 そんな矢先、心配していたことが起こる… 在宅介護を諦めた事件 ある日の夜中、「〇〇(オヤジの名前)が埋められてる!」と叫びながら、おばあちゃんは、アパートの壁を杖でドンドンと叩きまくり、警察沙汰になる。隣の方に通報されたのだ。 連絡を受けて急遽帰宅したオヤジは、アパート前に止まるパトカーと、野次馬の人達の群れ、警察官にさえ喰ってかかってる鬼の形相のおばあちゃんを見たとのこと。 おばあちゃんはオヤジの顔を見て落ち着いたそうだが、警察官から「しっかり見てあげて下さい」と注意を受けた。 翌朝オヤジからの連絡を受けたぼくは、急遽仕事を休んでおばあちゃんを連れ、主治医である認知症専門のDr.を受診。家庭事情を含め説明した上で相談すると、その場ですぐに調整して下さり、翌日には緊急で精神科の病院に入院させてもらえることになった。 心底ホッとした…。 オヤジもぼくも、お金の不安はかなりあったが、そんなことを言ってる場合ではなかった。 おばあちゃんの最期の日々 翌日も引き続き休みを取り、オヤジと一緒に家から約1時間ほど離れた山手のニュータウンの脇にひっそりと佇むA病院におばあちゃんを連れていった。 おばあちゃんは車から降りて病院に入ったところで表情が豹変し、急に凶暴になった。その状態で院長先生との面談に3人で臨んだ。 おばあちゃんが「あんたはキツネが化けとるんや!」と叫びながら院長先生を杖で突こうとしたところで看護師3名に押さえつけられ、車椅子で奥に連れて行かれた。 オヤジと2人で平謝りし、その後に入院の手続きなどを行い、最後に病室に通された時にはおばあちゃんは眠ってた。 1階のロビーから病室まで案内されたのだが、病棟の玄関では施錠されているドアを2か所通った。さらにおばあちゃんの病室にも鍵がかかっていた。 病室前の廊下ではベッドごと出されて眠っている方や、車椅子と腰ベルトでつながれている方などを目撃した。自分が勤める施設とあまりに違う光景に衝撃を受けた…。 「こういうところにおばあちゃんを置いていくのか…」 そう思いながらもぼくは、介護士でありながらおばあちゃんの介護を放棄した… よく「介護の仕事って大変ですよね」と言われるが、おうちで家族介護されているみなさんの苦労を思うと、軽々しく「そうなんですよ」なんて言えない。他人だからこそ冷静に、余裕を持って、その人のお世話をさせて頂けるんだと思う。 家族介護を何年もされたかたのお話を聞くたび、尊敬の念を深く抱く。ほんとによほどの覚悟がないと出来ないし、自分が壊れてしまってもおかしくないと思う。 だからこそ、家族介護を頑張っておられる方には、少しでもぼくたちのようなプロの介護士に頼ってほしいと伝えたい。そしてぼくは、頼られるプロになりたいと思う。 生きてるおばあちゃんを見た最後は、お見舞いに行った時だった。看護師さんに頭を撫でられ、気持ちよさそうに眠ってる姿。 陽に当たり、全ての苦痛から解放されたような穏やかな表情が、「家でお世話できなかった」というぼくの罪悪感を消してくれた。94歳の誕生日を迎えた春のことだった。 どれだけ穏やかに関わっても、認知症による暴言暴力が全く治まらないかたもいる。高齢者施設によっては「精神科の病院への入院」を良しとせず、ただ耐えることを方針とするところもある。 だが、介護する側にも限界がある。時にはそういった病院や薬に頼ることも必要であると、おばあちゃんのことがあったからこそ、考えるようになった。
Mさん(女性)は施設入居時から寝たきりではありましたが認知症は全く有りませんでした。施設入居初日に、ロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫。 それからずっと全てを拒否。食事、水分摂取、入浴、更衣、オムツ交換、そして会話。車椅子からベッドに移る際に激しく抵抗され、壁のほうを向いたままで、職員みんなが困ってた…。 介護士としてのデビュー ぼくが介護士になったのは29歳の時。 それまでは主に家庭の事情で、少しでも高い収入を得る必要があった為に、あえて正職員に就かずに、朝から晩までアルバイトを掛け持ちして収入を得ていた。 家庭の事情が落ち着き、結婚もしたので、そろそろ正職員として勤務をしようということになり、当時『ホームヘルパー2級』という資格を1ヶ月半ほどで取得したのちに初めての就活をした。 そしてすぐ、自宅近くに新設される『住宅型有料老人ホーム』にオープニングスタッフとして採用されたのである。 開設1ヶ月前に召集された介護職員の内訳は次の通り。 系列の高齢者施設から異動して来られた男性の主任さんと、オープニングスタッフの中から抜擢された2人の副主任。 2名ほどの経験者と、10数名の未経験者。 そのほとんどが高校や専門学校、大学を卒業したばかり。 ぼくはその中では圧倒的な最年長だった。 そして抜擢された副主任の2人は、介護経験豊富な女性と、 「社会人経験が豊富」なだけの僕だった。 未経験なのにいきなりの副主任…プレッシャーが半端じゃなかった。 初めての入居者さんが介護拒否 1ヶ月の開設準備期間を経て、いよいよオープン初日。初めて入居してこられたかたが、冒頭のMさんだったのだ。 病院の送迎車からストレッチャーに寝た状態で降りてこられたMさんは、施設のロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫された。 初めての入居者さんをお迎えしていた施設の全職員が唖然とする中、介護主任とぼくじゃないほうの副主任がMさんの元に駆け寄る。 なだめるように話しかけるが、聞く耳を持たれず、両手をバタつかせて抵抗されたので、送迎に同行されていたヘルパーさんも加わり、なんとか施設で用意していた車椅子(リクライニングタイプ)に移って頂いた。 その間も絶叫は続いていたが、お構いなしに送迎の方々は戻っていかれた。 車椅子を主任が押して、居室に案内する。ぼくたちは全員でついていく。それから居室のベッドに移って頂くのも3人がかり。 その時に初めて、ぼくは高齢者のかたの介助をさせて頂いた。そして思いっきり、腕に爪を立てられてキズを負わされた。 それからというもの、Mさんは、職員が少しでも身体に触れようものなら、ひっかくわ、噛みつくわ。飲まず食わずで3日間。時には大声、時には無視で、介護拒否を続けた。 さすがに3日目には、脱水を危惧した施設のDr.が点滴を試みたが、それも思いっきり暴れて拒否。「これだけ元気ならまだ大丈夫」と、Dr.の指示で様子を見ることになった。 Mさんは「要介護5」のかたで、認知症は全くないが、下半身に全く力が入らず寝たきりの状態。両腕は動かせるが、脇を半分開けることができる程度しか上げれず、また指が変形しているので上手くものを掴んだりできない。 オシッコは『バルーンカテーテル』という管につながれていて、流れ出てパックにたまったものを介護者が定期的に破棄する。ウンチはオムツ内にするよりないが、便秘傾向なので、下剤を服用して4〜5日ごとに出るかどうかという感じであった。 要するに、生活全般に介護が必要な方なので…。 このままずっと介護拒否が続くと、ほんとに大変なことになる。 介護士、看護師、ケアマネジャー、相談員など、多職種みんなでカンファレンスで話し合うもいい対策案は出ず。入院していた病院に問い合わせても、そんなことはなかったとのこと。 かたくなな心を溶かした作戦 徹底抗戦の構えから4日目の夜勤がぼくだった… 夕方に出勤し、Mさんの情報を日勤の職員に確認すると、その日も朝から何も口にせず、全て拒否が続いているとのこと。 夕食は18時から提供開始。衛生的な観点から食事は2時間以内に召し上がって頂くのが施設のルール。 Mさんの居室に運び、お声掛けするも無視。すべてのお椀にフタをした状態でお盆ごとテーブルに置いて一旦、退室する。 今日も食べてくれないのか… そう思いつつ19時、再度、Mさんの居室へ。 壁のほうを向いて寝ている背中に話しかける。 「Mさん、お腹へってないんですか?」「のど乾いてないです?」 …返事はない。 そこでぼくは(なぜそうしようと思ったのか全く覚えていないが)ペットボトルを取りに行き、 「のど乾いたから、ぼく飲みますね~」と言った後、 グビグビグビグビ~って思いっきり音を立てて飲んでみた。 そして、「あぁうまぁぁ!」と大げさに言ってみた。 すると、 “ぐぅ~~~っ”とMさんのお腹の虫が鳴いたのだ。 「ん?今のなんです?なんの音です?」と、詰め寄る。返事はない。 が、肩が揺れていることに気付いた。 わざと沈黙で間を取ったあと、Mさんの寝ておられるベッドのブレーキを外し、壁からベッドを離して身体を入れることの出来るスキマを作った。 そのスキマに入り、 「今のぐぅ~~~ってなんでした?」と言いつつ、壁のほうを向いてるMさんの顔を覗き込むと、目と口をギュッとして笑いを堪えてた。 「めっちゃ笑ろてますやん」とツッコむと、よけいに目と口をギュッとして堪える。全身が揺れている。 「Mさん、ぐぅ~~~~って聞こえませんでした?」って、肩に手を当てて言ったと同時に我慢しきれず大爆笑! 「あっははははははははは!!」 すかさず、「飲みます?」とお聞きすると、「うん」と笑顔で返して下さった。4日間で初めて見せて下さったその笑顔が可愛すぎた。 ペットボトルにストローを指し、お口元へ持っていくと、ポカリをゴックンゴックン一気飲みされた。それから「夕食も食べます?」とお聞きすると、「お腹がへってるから食べさせて」と言って下さった。 ベッドの頭側を上げて食べやすい姿勢になって頂き、ぼくの食事介助で召し上がって頂くと、パクパクと平らげて下さった。 途中で様子を見に来たもう1人の夜勤職員が、食事しているMさんを見て「え~~~?!」ってビックリしながら笑ってた。ぼくは副主任らしいことが初めて出来たことで、きっとドヤ顔をしていた。 拒否の理由と、介護という仕事のやりがい 食事しながらMさんは悲しそうにぼくに言った… 「この施設に入るって家族に言われてなかったんや。退院したら、自分のおうちに帰れるもんやと思ってた。おうちで家族が面倒見てくれるもんやと思ってた…そしたら、病院から車に乗せられても、家族のもんが一緒に乗ってけぇへんし、降ろされたと思ったら、見たこともないホテルみたいなところやろ?それでわかったんよ。」 それから、 「…でも、あんたらに関係ないもんな。家族とはまた話をしたいけど…とにかく、来てからずっと意地はってごめんな。ありがとう」 と、笑顔で言って下さった。 ご家族とのことを考えると複雑な気持ちではあったが、『ありがとう』の言葉で、ぼくは全身に喜びがこみ上げた。 身体が不自由でオシッコも管がつながれた状態。ご家族の協力がないとおうちでは生活できないと理解されていたMさんは、拒否がなければめっちゃ可愛いおばあさんだった… 介護職は、入居者さん・ご家族両方の思いを引き受ける仕事であり、めちゃくちゃやりがいのある仕事であるとMさんから教えて頂いた。 この時のことが脳裏に焼き付いているからこそ、ぼくは介護職という仕事を18年も続けてこれているのだと思う。 出会った初めての入居者さんがMさんで、ぼくは運が良かった…。
認知症のNさんは、ぼくが勤務する特別養護老人ホームに入居してこられた初日から 夕方になるとご自身で風呂敷にまとめられた荷物を手に フロア内をウロウロし始めるという徘徊行動を繰り返されていた。 繰り返される夕方の帰宅願望 介護職員が「どうされましたか?」とお聞きすると 決まって「おうち帰らなあかんねん」と言われ 出口を探して廊下を行ったり来たりされるのだ。 他部署の職員がエレベーターでフロアに上ってくると、入れ違いで そのエレベーターに乗り込まれ、1階の事務所まで行かれたこともあった。 杖でスタスタと歩かれるそのご様子は、普通のお元気なおばあさんなので そのまま玄関から外に行かれたら、老人ホームから間違って出てこられたとは 誰も思わないほど。 それがかえって危険だった。 1度ウロウロし始めると、”早くおうちに帰らないといけない”という焦りから こちらからの声掛けに全く耳を傾けて下さらず 「今日はおうちに帰る日じゃないですよ」 「外はもう暗いので明日にしましょう」とお伝えしても 「こんなところにいてる場合じゃないねん!」 「早く帰らせて!」と 不穏が募るばかり。 事務所まで行かれた際には、玄関の自動ドアが開くたびに 出て行こうとされるのを止めなければならず お話を伺いながら落ち着いて頂き 居室のあるフロアまでNさんに戻って頂くのに かなりの時間を要したほどだった。 緊急カンファレンス 緊急で、介護のフロア主任・Nさんの担当職員・看護師・ケアマネジャー 相談員・リハビリ職員などが集まり、Nさんのカンファレンスを実施。 ぼくも参加することに。 「夕方になるまでに没頭できるものをして頂く」 「精神的に落ち着かれる薬を飲んで頂く」 「何か気がまぎれるレクリエーションをして頂く」などの意見が出たが どれも長期的な対応方法であり、その日からすぐに効果のある方法は なかなか思いつかなかった。 結果、統一した対応として、お疲れになられて落ち着いてこられるまでは 下手にお声掛けして「火に油を注ぐようなこと」はしないでおこう、となった。 落ち着かれると職員の声掛けにも応じて下さるようになるので それを待つという方法である。 ただ、杖歩行で足腰もしっかりされているとは言え やはり転倒のリスクもあり、また、エレベーターへ乗り込まれる可能性も あるので、付かず離れずの対応が必要だった。 帰宅願望によるウロウロは夕方から始まるので ちょうど夕食の忙しい時間とカブる。 それが毎日。 人手も足らず、Nさんだけに付きっきりになれる職員はいない。 かといって、ウロウロされるがままだと、Nさんはますます不穏になられるし リスクもある… どうすればいいか糸口がつかめず、職員みんなが困ってた… 最も光り輝いていた時代 認知症のかたの中には、自分が自分でなくなっていくような感覚から 不安や不満、混乱、恐怖といったネガティブな感情を感じなくて済むように ご自身で現実とは違う世界を創り出し、そこに避難するというかたがおられる。 Nさんの場合は、ご自身の人生において最も光り輝いていた 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という世界に 意識を戻すことで、認知症のツラさから逃避しているのではないか。 だから 「主人や子供たちが帰ってくるまでに晩ご飯の支度をしないといけない」 という思いで、夕方からの帰宅願望が出現しているのではないかと推測。 その推測を元に、ぼくはある作戦に打って出る。 寄り添いながらの散歩 それは、普段から現場職員の1人としてカウントされておらず、いつでもフリーで 動ける介護部長という役職のぼくだからこそ出来ること… いつものように夕方の帰宅願望が出現し 「おうち帰らなあかん」とウロウロし始めたNさんのお顔を見ながら 「おうちまで送っていきますね」と一緒に施設を出た。 風呂敷にまとめた荷物を背負い、杖をついておうちに向かうNさん。 あたりをキョロキョロと見渡しながら、時に立ち止まり、時に急な方向転換。 車道にも出ていくのでヒヤヒヤする。 隣りにつきながら安全を確保し、なるべく穏やかに話しかけるが 「ついてこんでええ!」と大きな声で怒鳴られる。 歩行者や自転車のかたがこちらを怪訝そうに見ている。 こけそうな時など、すぐに手が届く距離で付いて歩き どっちに行けばいいか迷っておられるしぐさの時に話しかける。 少しずつ少しずつ、ぼくの言葉にも耳を傾けて下さるようになり 車通りの少ない住宅街のほうに誘導していく。 だんだんぼくの顔に安心される感覚が大きくなってくる… そんな散歩を約2時間。 あたりもだいぶ暗くなってきた頃、最後はヘトヘトで 公園のベンチに座り込まれた。 施設に電話して相談員に車で迎えに来てもらう。 Nさんにペットボトルのお茶を飲んで頂いて、それから車で一緒に施設に戻った。 他のみなさんは夕食を召し上がっておられた。 翌日も、夕方に「おうち帰る!」が始まる。 「送っていきます」「来んでええ!」という会話を交わしつつ 2人で一緒に施設を出る。 前日と同じようなコースの散歩。 公園のベンチに座ったのは約1時間30分後。 施設に電話して車でのお迎え。 さらに次の日。 1時間ちょっとの散歩で施設へ歩いて帰る。 日はまだ落ちておらず、夕焼けに染まったアスファルトに Nさんとぼくの影が並んで伸びていた。 散歩3日目にしてはじめて夕食前に帰ってこれたので なんとなくの思い付きではあったが 職員がしている夕食の準備を手伝って頂くことにした。 笑顔で「ええよ」とのお返事。 「おうちに帰る!」と言ったことはすっかり忘れておられた。 4日目の散歩は30分程度。 Nさんはまだまだ歩けそうだったが、途中で切り上げられるかも?と思い 「夕食の準備があるから帰りましょうか?」と声を掛けてみた。 すると、「そうやな。帰ろか」とのお返事。 5日目でついに、「おうちに帰る!」がなくなった。 ぼくが、「散歩行きませんか?」とお声掛けすると 「今から行ったら、この人らの晩ご飯に間に合わんがな」と笑顔で言われた。 それ以降、みなさんの夕食の準備をすることが、Nさんの日課になった。 夕方からの帰宅願望は、時折、思い出したかのように顔を出すこともあったが 「今からNさんが帰ったら、みなさんの晩ご飯に間に合わないですよ」と お伝えすると、「そやな。じゃあ明日にするわ」と笑顔ですぐに現実の世界に 戻ってきて下さるようになった。 この対応を職員全員で共有して統一した。 帰宅願望から自分の居場所へ Nさんがおうちに帰りたかったのは 「家族が帰ってくるまでに夕食の準備をしないといけない」という 妻として、母親としての思いがあったから。 そしてそれは、認知症により、自分で自分に違和感を覚え じょじょに自分ではなくなっていくことの不安や恐怖から自分を守る為に構築した 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という 世界で生きることを選択したことから生じた思いだった。 Nさんの世界に入って寄り添い、否定せず じょじょに「この人は安心できる人」と認識して頂くことで 落ち着いて頂くまでの時間を短くする。 穏やかな気持ちになられたところで、ぼくのほうからお願いし 他のみなさんの夕食の準備をお手伝い頂く。 そうすることで夕食の準備をする対象を 「家族」から「この人ら」に変換できたことで Nさんが構築した世界と現実の世界を結び付けて1つにすることが出来た。 そしてNさんから、夕方の焦りが消えていった。 Nさんはその後、「人の役に立っている」ことで、ご自分の居場所を見出され 職員のするいろいろな業務を笑顔で手伝って下さり その後、体調を崩されるまでの数年間をほんとにイキイキと過ごされた… 今から13年前のお話です。
1ヶ月間、お風呂に入ってくれないYさんは、認知症の全くないおばあちゃん。「前におった施設でめっちゃ怖かってん」とのこと。 毎日お風呂にお誘いするが「やめとくわ」と拒否される。夜、パジャマに着替える時に、ちょこっと身体を拭かせて下さる程度。 どんな怖い思いをしたの?には「・・・」と無言になり、答えて下さらなかった… 入浴拒否の原因がつかめない 認知症が全くなくて普通に日常の会話が成立するYさん。 車椅子をご自分の足で漕いでフロア内を自由に動かれたり、手先が器用で洗濯物たたみなどのお手伝いを自ら職員に声をかけてして下さるくらい、しっかりされたかただった。 入居してから1ヶ月、周りの入居者さんとはあまり馴染もうとされなかったが、職員とはすぐに馴染んで仲良くなられた。 Yさんは手すりを掴んで立つことも出来るが、膝に力が入らずに数十秒で膝折れしてしまうので、トイレのお手伝いが必要だった。 だが、男性職員でもその介助はさせて頂けていたので、入浴を拒否されるのは「恥ずかしさ」ではないのはわかっていた。 つまり、ご本人がおっしゃるように、ほんとに「前にいた施設で怖い思い」をされたのだと思う。 入居されて以来1ヶ月間、誰がいつお声掛けさせて頂いても、入浴だけは絶対にして下さらなかった… 各部署の職員が集まってカンファレンスを開き、どうすれば入浴して下さるのかを話し合ったが、いい答えは出てこなかった。 突破口をこじ開けた、ある女性職員の行動 そんな状況の中、Yさんが特に心を許してる女性職員が、突然なにを思ったのか、洗面器にお湯を入れてYさんの居室に入って行った。 「お風呂に入るのが怖いのはわかりました。でもちょっと手をつけるだけです。やってみませんか?」Yさんはこの提案を受けてくれた。 女性職員はお湯の中でYさんの手のひらを優しくマッサージしたそうで、そのことを「すごく気持ちよかった」と喜んでおられた。 洗面器での『手浴』を何度かされた後、その流れで、次にその女性職員は『足浴』(洗面器でする足湯のようなもの)を提案。Yさんは「あんたがやってくれるんなら」と快諾された。 足浴も気持ちよかったらしく、「これええわ~」と大きな声で喜ばれた。手浴も足浴も2人きりの時間。何度も繰り返し行うことで、Yさんと女性職員の関係性がどんどんできあがっていく… そうこうしていると、突然、「シャワーやったらしてもええかな」とYさんからの申し出があったとのこと。 「もちろんあんたがやってな」とのオーダーだった。 女性職員はものすごい勢いで「部長!聞いて下さい!」と、報告に来てくれた。その時の嬉しそうな表情が忘れられない。 入居されて以来、入浴を拒否され続けてきたYさんがお風呂に入られる。 このことは施設全体の大きなニュースになった。 ただし、いろんな人が声をかけることでご本人の気持ちが変わってしまったらよくないので、全部署の責任者が集まり、Yさんにその話をしないということを全職員に統一することで意見を一致させた。 というわけで、Yさんとの話は女性職員だけが窓口になることになった。 Yさん入浴大作戦 女性職員が事前にお聞きしていた、Yさんの希望される入浴の時間は朝一番。「他の人の入った後の、濡れたお風呂場に入りたくない」とのこと。 他の入居者さんには申し訳ないが、その日はYさん以外のかたの入浴を午後からにして頂くことにした。 どのくらい時間がかかるかわからないので、2人が焦らず、ゆっくり時間を使えるようにお膳立てをしたのだ。 初日はほんとにシャワーで身体を流すだけだった為、その時間はすぐに終了した。Yさんは見たことのないような笑顔で、「あ~気持ちいい!」を連呼されていたそう。 ただし、身体を拭く段階で女性職員はちょっとした違和感を覚えたとのこと。 Yさんはシャワーで濡れた身体をバスタオルで拭かせて頂く際に、身体の部位を指さして「ここ」、「次はここ」と指定してこられたというのだ。 とりあえずその通りに拭かせて頂き、さらに髪の毛は洗っていなかったのでそこまで時間もかからずに終えることができた。が… 2回目のシャワーの日は身体をボディソープで洗わせて頂けた。 3回目では洗面器にためたお湯でお顔を自ら洗われた。 4回目で髪の毛にシャワーをかけさせて頂けた。 という具合に、少しずつ「Yさんのお風呂への恐怖心」がやわらいでいく毎に、させて頂けることが増えてきた。 その後、何度目かの時に髪の毛をシャンプー・リンスで洗わせて頂くことができ、さらに湯舟に使って頂くこともでき、ついに「普通の入浴」をして下さるようになった。 と、段階を経ていく毎に、Yさんの細かい指示もエスカレートしていった… 「普通の入浴」ができた日に要した時間は約1時間。Yさんとの関係性を築き上げてきた女性職員でさえ、あまりの細かい指示にぐったりしていた。 それもそのはず。洗う順番、流す時のシャワーの圧、湯舟のお湯加減、湯舟に浸かる時間、身体を拭く順番などなど… ただ、この女性職員がすごかったのは、入浴介助後すぐに場面場面を思い出しながら、手順をメモっていったこと。 そして、Yさんの入浴の前になるとそのメモを読み返し、じょじょにYさんの指示がくるよりも先にできるようになっていったのだ。 そうしてYさん専用の『入浴介助マニュアル』が完成したのである。 そこまで全てこの女性職員が対応してくれた後、それからはYさん了承の元で、女性職員が他の職員を連れてYさんの入浴介助に入らせて頂き、マニュアルの内容を伝授していった。 ぼくも教えてもらったが、まぁ細かいこと細かいこと。結局、全部覚えきれなかったくらいであった。 だが結果的に、フロアの職員全員がYさんの入浴を担当させて頂けるまでに至った。 Yさんの入浴時間は、浴室にお連れしてから髪の毛をドライヤーで乾かして浴室を出るまでで約30分にまで短縮することができた。 Yさんが朝風呂に一番で入るのは変わらなかったが、Yさんの為に他のかたに午後まで待って頂くといったことはなくなっていった。 しかも、思わぬ副産物までついてきた。 フロアの職員全員が、Yさんだけでなく、他の入居者さんへの入浴介助についても、これまで以上に丁寧に出来るようになったのだ。 入居から約3ヶ月、Yさんの『お風呂への恐怖心』を少しずつ溶かしてってくれたこの女性職員のこと、ほんとに尊敬しています。 入居者さんお一人お一人にとことんこだわって、最善の方法を探すことの大切さを後輩から教えてもらいました。 最初になんで「手浴」をしようと思いついたのか?を聞いてみましたが、「なんとなく」だったそうです。 ぼくだけが知っていたYさんのナイショ話 実は、女性職員が最初に洗面器を持ってYさんの居室に入っていった時、ぼくはすでに勝利を確信してました。 まだ入浴を拒否されていた頃、Yさんがぼくだけに、「誰にも言わんといてな…」とぶっちゃけてこられたことがあったからです。 15年の時を経て、Yさんとの約束をやぶって発表しちゃいます。ぼくにだけ打ち明けてくださったナイショ。それは、 「ほんまはお風呂、好きやねん」でした。 結局、Yさんの恐怖心の理由はわからずじまいでしたが、そこに触れる人は誰もいませんでした。 おわりに 15年の介護の管理職歴でつちかった知識や経験なんかを、ほっこりおもろい感じで発信しています。 暗いニュースばかりが目立つ介護業界ですが、介護職は「カッコよくてやりがいがある仕事」だって思って頂けるように、発信を続けたいと思います。
大好きだったぼくのおばあちゃんの晩年は、認知症の幻覚がひどかった。「家に知らん女があがりこんでる」「ベッドの下にヘビが入りよった」「身体中から虫がわいてくる」と騒ぎ立てる毎日。 日に日に、自宅で介護することが困難になっていく… おばあちゃんっ子だったぼくの家庭環境 ぼくは生粋のおばあちゃんっ子だった。 生まれた時から一緒に暮らしてたおばあちゃんは、オヤジの母親。 オヤジ・おかん・ぼく・妹・おばあちゃんの5人家族。小さい頃から共働きだったぼくの両親に代わり、ぼくと妹はおばあちゃんに育てられたと言っても過言ではなかった。 小学1年生から引きこもりだったぼくは、極度の人見知り。どこに行くにも何をするにも、いつもおばあちゃんがいてくれた。 ぼくは小学校の高学年になるまで、おばあちゃんの二の腕を掴んでないと寝れないような子だった。 小学5年の時、オヤジの経営する会社が倒産し、一気に貧乏生活に突き落とされた。オヤジもおかんも借金返済に追われ、家のことはますますおばあちゃんが1人でやっていた。 そんな状態であるにも関わらず、オヤジは女性にだらしがなく、社長時代の金銭感覚を修正することはなかった。その事がきっかけで、おかんとの関係がどんどん悪化し、後に妹だけ連れて出ていくことになる。 おばあちゃんは息子が可愛いので、オヤジを責めるのではなく、なぜかおかんに対して厳しく当たっていた。そのことも、おかんが堪忍袋の尾を切る原因になった… おばあちゃんが認知症を発症 借金返済生活が15年ほどで完了し、おかんと妹も家を出て、ぼくも結婚して家を出て、それからおばあちゃんは息子であるオヤジと2人暮らしになった。 家賃がもったいないので、実家を引き払いオヤジと2人で小さなアパートに引っ越したのだ。それからほどなく、おばあちゃんは認知症を発症した。 タクシーの運転手だったオヤジは夕方に家を出ると翌朝まで帰らない。それまでおばあちゃんは家に1人。オヤジは帰ってきてもご飯を食べてビールを飲んだらすぐに寝る。 起きたとしても部屋は別々。おばあちゃんは誰ともしゃべらず、ひたすら毎日、テレビの前に座ってるという生活だったのがよくなかったのだろう。 ぼくもちょくちょくおばあちゃんの様子を見に行ってたし、子供たちを連れて遊びに行ったりもしていたが、大した刺激にはならなかったんだと思う。 すでに介護職だったぼくは、認知症が発症してからは頻度を上げておばあちゃんちに通っていたし、オヤジが2日ごとに夜間不在になるので、その日に泊まったりもしていた。 でもやはり、自分の家庭も仕事もあり、お世話するにも限界があった。 日中、家にヘルパーさんに来てもらうようになった。生活のお手伝いと話相手。デイサービスにも通うようになった。 人には「ええ顔」をするタイプのおばあちゃんは、「知らん人が家に来るの嫌や」「知らん人ばっかりおるとこに行くの嫌や」とぼくとオヤジには文句を言いながらも、ヘルパーさんともデイサービスのみなさんともすぐに馴染んでいた。 おばあちゃんの幻覚症状が出るのは、家に1人でいる時。 ぼくが家に行ってみると、ちょうど幻覚を見てる時ってことも多かった。「子供が家中、走りまわりよる」「さっきから女がこっち睨んできとる」「また服の中に虫が入ってきよった」とわめき散らす。 オヤジは自ら語らなかったが、おそらくおばあちゃんを殴ってた。オヤジに聞いても「そんなことするわけないやろ」と返ってきたし、おばあちゃんに聞いても息子をかばうのか「そんなことされてない」との返答しかなかった。 ぼくも、自分の生活を削っておばあちゃんのお世話に行っていたのだが、それがだんだん嫌になっていった。 認知症はどんどん進行していく。最初の頃からお世話になってる馴染みのヘルパーさんに悪態をつき、デイサービスの送迎員さんを殴ろうと暴れ、ヘルパーさんの利用もデイサービスの利用も、徐々に先方から難色を示されるようになっていった。 老人ホームへの入居を真剣に悩んだが、ぼくとオヤジが2人でいくらふり絞ってもお金の面で厳しく、なにより、同じ介護業界の人間の見解として「悪さ」をするおばあちゃんはどこからも断られると思ってた。 そんな矢先、心配していたことが起こる… 在宅介護を諦めた事件 ある日の夜中、「〇〇(オヤジの名前)が埋められてる!」と叫びながら、おばあちゃんは、アパートの壁を杖でドンドンと叩きまくり、警察沙汰になる。隣の方に通報されたのだ。 連絡を受けて急遽帰宅したオヤジは、アパート前に止まるパトカーと、野次馬の人達の群れ、警察官にさえ喰ってかかってる鬼の形相のおばあちゃんを見たとのこと。 おばあちゃんはオヤジの顔を見て落ち着いたそうだが、警察官から「しっかり見てあげて下さい」と注意を受けた。 翌朝オヤジからの連絡を受けたぼくは、急遽仕事を休んでおばあちゃんを連れ、主治医である認知症専門のDr.を受診。家庭事情を含め説明した上で相談すると、その場ですぐに調整して下さり、翌日には緊急で精神科の病院に入院させてもらえることになった。 心底ホッとした…。 オヤジもぼくも、お金の不安はかなりあったが、そんなことを言ってる場合ではなかった。 おばあちゃんの最期の日々 翌日も引き続き休みを取り、オヤジと一緒に家から約1時間ほど離れた山手のニュータウンの脇にひっそりと佇むA病院におばあちゃんを連れていった。 おばあちゃんは車から降りて病院に入ったところで表情が豹変し、急に凶暴になった。その状態で院長先生との面談に3人で臨んだ。 おばあちゃんが「あんたはキツネが化けとるんや!」と叫びながら院長先生を杖で突こうとしたところで看護師3名に押さえつけられ、車椅子で奥に連れて行かれた。 オヤジと2人で平謝りし、その後に入院の手続きなどを行い、最後に病室に通された時にはおばあちゃんは眠ってた。 1階のロビーから病室まで案内されたのだが、病棟の玄関では施錠されているドアを2か所通った。さらにおばあちゃんの病室にも鍵がかかっていた。 病室前の廊下ではベッドごと出されて眠っている方や、車椅子と腰ベルトでつながれている方などを目撃した。自分が勤める施設とあまりに違う光景に衝撃を受けた…。 「こういうところにおばあちゃんを置いていくのか…」 そう思いながらもぼくは、介護士でありながらおばあちゃんの介護を放棄した… よく「介護の仕事って大変ですよね」と言われるが、おうちで家族介護されているみなさんの苦労を思うと、軽々しく「そうなんですよ」なんて言えない。他人だからこそ冷静に、余裕を持って、その人のお世話をさせて頂けるんだと思う。 家族介護を何年もされたかたのお話を聞くたび、尊敬の念を深く抱く。ほんとによほどの覚悟がないと出来ないし、自分が壊れてしまってもおかしくないと思う。 だからこそ、家族介護を頑張っておられる方には、少しでもぼくたちのようなプロの介護士に頼ってほしいと伝えたい。そしてぼくは、頼られるプロになりたいと思う。 生きてるおばあちゃんを見た最後は、お見舞いに行った時だった。看護師さんに頭を撫でられ、気持ちよさそうに眠ってる姿。 陽に当たり、全ての苦痛から解放されたような穏やかな表情が、「家でお世話できなかった」というぼくの罪悪感を消してくれた。94歳の誕生日を迎えた春のことだった。 どれだけ穏やかに関わっても、認知症による暴言暴力が全く治まらないかたもいる。高齢者施設によっては「精神科の病院への入院」を良しとせず、ただ耐えることを方針とするところもある。 だが、介護する側にも限界がある。時にはそういった病院や薬に頼ることも必要であると、おばあちゃんのことがあったからこそ、考えるようになった。
Mさん(女性)は施設入居時から寝たきりではありましたが認知症は全く有りませんでした。施設入居初日に、ロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫。 それからずっと全てを拒否。食事、水分摂取、入浴、更衣、オムツ交換、そして会話。車椅子からベッドに移る際に激しく抵抗され、壁のほうを向いたままで、職員みんなが困ってた…。 介護士としてのデビュー ぼくが介護士になったのは29歳の時。 それまでは主に家庭の事情で、少しでも高い収入を得る必要があった為に、あえて正職員に就かずに、朝から晩までアルバイトを掛け持ちして収入を得ていた。 家庭の事情が落ち着き、結婚もしたので、そろそろ正職員として勤務をしようということになり、当時『ホームヘルパー2級』という資格を1ヶ月半ほどで取得したのちに初めての就活をした。 そしてすぐ、自宅近くに新設される『住宅型有料老人ホーム』にオープニングスタッフとして採用されたのである。 開設1ヶ月前に召集された介護職員の内訳は次の通り。 系列の高齢者施設から異動して来られた男性の主任さんと、オープニングスタッフの中から抜擢された2人の副主任。 2名ほどの経験者と、10数名の未経験者。 そのほとんどが高校や専門学校、大学を卒業したばかり。 ぼくはその中では圧倒的な最年長だった。 そして抜擢された副主任の2人は、介護経験豊富な女性と、 「社会人経験が豊富」なだけの僕だった。 未経験なのにいきなりの副主任…プレッシャーが半端じゃなかった。 初めての入居者さんが介護拒否 1ヶ月の開設準備期間を経て、いよいよオープン初日。初めて入居してこられたかたが、冒頭のMさんだったのだ。 病院の送迎車からストレッチャーに寝た状態で降りてこられたMさんは、施設のロビーで「イヤぁぁぁ!帰らせてぇぇぇ!」と大絶叫された。 初めての入居者さんをお迎えしていた施設の全職員が唖然とする中、介護主任とぼくじゃないほうの副主任がMさんの元に駆け寄る。 なだめるように話しかけるが、聞く耳を持たれず、両手をバタつかせて抵抗されたので、送迎に同行されていたヘルパーさんも加わり、なんとか施設で用意していた車椅子(リクライニングタイプ)に移って頂いた。 その間も絶叫は続いていたが、お構いなしに送迎の方々は戻っていかれた。 車椅子を主任が押して、居室に案内する。ぼくたちは全員でついていく。それから居室のベッドに移って頂くのも3人がかり。 その時に初めて、ぼくは高齢者のかたの介助をさせて頂いた。そして思いっきり、腕に爪を立てられてキズを負わされた。 それからというもの、Mさんは、職員が少しでも身体に触れようものなら、ひっかくわ、噛みつくわ。飲まず食わずで3日間。時には大声、時には無視で、介護拒否を続けた。 さすがに3日目には、脱水を危惧した施設のDr.が点滴を試みたが、それも思いっきり暴れて拒否。「これだけ元気ならまだ大丈夫」と、Dr.の指示で様子を見ることになった。 Mさんは「要介護5」のかたで、認知症は全くないが、下半身に全く力が入らず寝たきりの状態。両腕は動かせるが、脇を半分開けることができる程度しか上げれず、また指が変形しているので上手くものを掴んだりできない。 オシッコは『バルーンカテーテル』という管につながれていて、流れ出てパックにたまったものを介護者が定期的に破棄する。ウンチはオムツ内にするよりないが、便秘傾向なので、下剤を服用して4〜5日ごとに出るかどうかという感じであった。 要するに、生活全般に介護が必要な方なので…。 このままずっと介護拒否が続くと、ほんとに大変なことになる。 介護士、看護師、ケアマネジャー、相談員など、多職種みんなでカンファレンスで話し合うもいい対策案は出ず。入院していた病院に問い合わせても、そんなことはなかったとのこと。 かたくなな心を溶かした作戦 徹底抗戦の構えから4日目の夜勤がぼくだった… 夕方に出勤し、Mさんの情報を日勤の職員に確認すると、その日も朝から何も口にせず、全て拒否が続いているとのこと。 夕食は18時から提供開始。衛生的な観点から食事は2時間以内に召し上がって頂くのが施設のルール。 Mさんの居室に運び、お声掛けするも無視。すべてのお椀にフタをした状態でお盆ごとテーブルに置いて一旦、退室する。 今日も食べてくれないのか… そう思いつつ19時、再度、Mさんの居室へ。 壁のほうを向いて寝ている背中に話しかける。 「Mさん、お腹へってないんですか?」「のど乾いてないです?」 …返事はない。 そこでぼくは(なぜそうしようと思ったのか全く覚えていないが)ペットボトルを取りに行き、 「のど乾いたから、ぼく飲みますね~」と言った後、 グビグビグビグビ~って思いっきり音を立てて飲んでみた。 そして、「あぁうまぁぁ!」と大げさに言ってみた。 すると、 “ぐぅ~~~っ”とMさんのお腹の虫が鳴いたのだ。 「ん?今のなんです?なんの音です?」と、詰め寄る。返事はない。 が、肩が揺れていることに気付いた。 わざと沈黙で間を取ったあと、Mさんの寝ておられるベッドのブレーキを外し、壁からベッドを離して身体を入れることの出来るスキマを作った。 そのスキマに入り、 「今のぐぅ~~~ってなんでした?」と言いつつ、壁のほうを向いてるMさんの顔を覗き込むと、目と口をギュッとして笑いを堪えてた。 「めっちゃ笑ろてますやん」とツッコむと、よけいに目と口をギュッとして堪える。全身が揺れている。 「Mさん、ぐぅ~~~~って聞こえませんでした?」って、肩に手を当てて言ったと同時に我慢しきれず大爆笑! 「あっははははははははは!!」 すかさず、「飲みます?」とお聞きすると、「うん」と笑顔で返して下さった。4日間で初めて見せて下さったその笑顔が可愛すぎた。 ペットボトルにストローを指し、お口元へ持っていくと、ポカリをゴックンゴックン一気飲みされた。それから「夕食も食べます?」とお聞きすると、「お腹がへってるから食べさせて」と言って下さった。 ベッドの頭側を上げて食べやすい姿勢になって頂き、ぼくの食事介助で召し上がって頂くと、パクパクと平らげて下さった。 途中で様子を見に来たもう1人の夜勤職員が、食事しているMさんを見て「え~~~?!」ってビックリしながら笑ってた。ぼくは副主任らしいことが初めて出来たことで、きっとドヤ顔をしていた。 拒否の理由と、介護という仕事のやりがい 食事しながらMさんは悲しそうにぼくに言った… 「この施設に入るって家族に言われてなかったんや。退院したら、自分のおうちに帰れるもんやと思ってた。おうちで家族が面倒見てくれるもんやと思ってた…そしたら、病院から車に乗せられても、家族のもんが一緒に乗ってけぇへんし、降ろされたと思ったら、見たこともないホテルみたいなところやろ?それでわかったんよ。」 それから、 「…でも、あんたらに関係ないもんな。家族とはまた話をしたいけど…とにかく、来てからずっと意地はってごめんな。ありがとう」 と、笑顔で言って下さった。 ご家族とのことを考えると複雑な気持ちではあったが、『ありがとう』の言葉で、ぼくは全身に喜びがこみ上げた。 身体が不自由でオシッコも管がつながれた状態。ご家族の協力がないとおうちでは生活できないと理解されていたMさんは、拒否がなければめっちゃ可愛いおばあさんだった… 介護職は、入居者さん・ご家族両方の思いを引き受ける仕事であり、めちゃくちゃやりがいのある仕事であるとMさんから教えて頂いた。 この時のことが脳裏に焼き付いているからこそ、ぼくは介護職という仕事を18年も続けてこれているのだと思う。 出会った初めての入居者さんがMさんで、ぼくは運が良かった…。
認知症のNさんは、ぼくが勤務する特別養護老人ホームに入居してこられた初日から 夕方になるとご自身で風呂敷にまとめられた荷物を手に フロア内をウロウロし始めるという徘徊行動を繰り返されていた。 繰り返される夕方の帰宅願望 介護職員が「どうされましたか?」とお聞きすると 決まって「おうち帰らなあかんねん」と言われ 出口を探して廊下を行ったり来たりされるのだ。 他部署の職員がエレベーターでフロアに上ってくると、入れ違いで そのエレベーターに乗り込まれ、1階の事務所まで行かれたこともあった。 杖でスタスタと歩かれるそのご様子は、普通のお元気なおばあさんなので そのまま玄関から外に行かれたら、老人ホームから間違って出てこられたとは 誰も思わないほど。 それがかえって危険だった。 1度ウロウロし始めると、”早くおうちに帰らないといけない”という焦りから こちらからの声掛けに全く耳を傾けて下さらず 「今日はおうちに帰る日じゃないですよ」 「外はもう暗いので明日にしましょう」とお伝えしても 「こんなところにいてる場合じゃないねん!」 「早く帰らせて!」と 不穏が募るばかり。 事務所まで行かれた際には、玄関の自動ドアが開くたびに 出て行こうとされるのを止めなければならず お話を伺いながら落ち着いて頂き 居室のあるフロアまでNさんに戻って頂くのに かなりの時間を要したほどだった。 緊急カンファレンス 緊急で、介護のフロア主任・Nさんの担当職員・看護師・ケアマネジャー 相談員・リハビリ職員などが集まり、Nさんのカンファレンスを実施。 ぼくも参加することに。 「夕方になるまでに没頭できるものをして頂く」 「精神的に落ち着かれる薬を飲んで頂く」 「何か気がまぎれるレクリエーションをして頂く」などの意見が出たが どれも長期的な対応方法であり、その日からすぐに効果のある方法は なかなか思いつかなかった。 結果、統一した対応として、お疲れになられて落ち着いてこられるまでは 下手にお声掛けして「火に油を注ぐようなこと」はしないでおこう、となった。 落ち着かれると職員の声掛けにも応じて下さるようになるので それを待つという方法である。 ただ、杖歩行で足腰もしっかりされているとは言え やはり転倒のリスクもあり、また、エレベーターへ乗り込まれる可能性も あるので、付かず離れずの対応が必要だった。 帰宅願望によるウロウロは夕方から始まるので ちょうど夕食の忙しい時間とカブる。 それが毎日。 人手も足らず、Nさんだけに付きっきりになれる職員はいない。 かといって、ウロウロされるがままだと、Nさんはますます不穏になられるし リスクもある… どうすればいいか糸口がつかめず、職員みんなが困ってた… 最も光り輝いていた時代 認知症のかたの中には、自分が自分でなくなっていくような感覚から 不安や不満、混乱、恐怖といったネガティブな感情を感じなくて済むように ご自身で現実とは違う世界を創り出し、そこに避難するというかたがおられる。 Nさんの場合は、ご自身の人生において最も光り輝いていた 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という世界に 意識を戻すことで、認知症のツラさから逃避しているのではないか。 だから 「主人や子供たちが帰ってくるまでに晩ご飯の支度をしないといけない」 という思いで、夕方からの帰宅願望が出現しているのではないかと推測。 その推測を元に、ぼくはある作戦に打って出る。 寄り添いながらの散歩 それは、普段から現場職員の1人としてカウントされておらず、いつでもフリーで 動ける介護部長という役職のぼくだからこそ出来ること… いつものように夕方の帰宅願望が出現し 「おうち帰らなあかん」とウロウロし始めたNさんのお顔を見ながら 「おうちまで送っていきますね」と一緒に施設を出た。 風呂敷にまとめた荷物を背負い、杖をついておうちに向かうNさん。 あたりをキョロキョロと見渡しながら、時に立ち止まり、時に急な方向転換。 車道にも出ていくのでヒヤヒヤする。 隣りにつきながら安全を確保し、なるべく穏やかに話しかけるが 「ついてこんでええ!」と大きな声で怒鳴られる。 歩行者や自転車のかたがこちらを怪訝そうに見ている。 こけそうな時など、すぐに手が届く距離で付いて歩き どっちに行けばいいか迷っておられるしぐさの時に話しかける。 少しずつ少しずつ、ぼくの言葉にも耳を傾けて下さるようになり 車通りの少ない住宅街のほうに誘導していく。 だんだんぼくの顔に安心される感覚が大きくなってくる… そんな散歩を約2時間。 あたりもだいぶ暗くなってきた頃、最後はヘトヘトで 公園のベンチに座り込まれた。 施設に電話して相談員に車で迎えに来てもらう。 Nさんにペットボトルのお茶を飲んで頂いて、それから車で一緒に施設に戻った。 他のみなさんは夕食を召し上がっておられた。 翌日も、夕方に「おうち帰る!」が始まる。 「送っていきます」「来んでええ!」という会話を交わしつつ 2人で一緒に施設を出る。 前日と同じようなコースの散歩。 公園のベンチに座ったのは約1時間30分後。 施設に電話して車でのお迎え。 さらに次の日。 1時間ちょっとの散歩で施設へ歩いて帰る。 日はまだ落ちておらず、夕焼けに染まったアスファルトに Nさんとぼくの影が並んで伸びていた。 散歩3日目にしてはじめて夕食前に帰ってこれたので なんとなくの思い付きではあったが 職員がしている夕食の準備を手伝って頂くことにした。 笑顔で「ええよ」とのお返事。 「おうちに帰る!」と言ったことはすっかり忘れておられた。 4日目の散歩は30分程度。 Nさんはまだまだ歩けそうだったが、途中で切り上げられるかも?と思い 「夕食の準備があるから帰りましょうか?」と声を掛けてみた。 すると、「そうやな。帰ろか」とのお返事。 5日目でついに、「おうちに帰る!」がなくなった。 ぼくが、「散歩行きませんか?」とお声掛けすると 「今から行ったら、この人らの晩ご飯に間に合わんがな」と笑顔で言われた。 それ以降、みなさんの夕食の準備をすることが、Nさんの日課になった。 夕方からの帰宅願望は、時折、思い出したかのように顔を出すこともあったが 「今からNさんが帰ったら、みなさんの晩ご飯に間に合わないですよ」と お伝えすると、「そやな。じゃあ明日にするわ」と笑顔ですぐに現実の世界に 戻ってきて下さるようになった。 この対応を職員全員で共有して統一した。 帰宅願望から自分の居場所へ Nさんがおうちに帰りたかったのは 「家族が帰ってくるまでに夕食の準備をしないといけない」という 妻として、母親としての思いがあったから。 そしてそれは、認知症により、自分で自分に違和感を覚え じょじょに自分ではなくなっていくことの不安や恐怖から自分を守る為に構築した 『専業主婦として夫と小さい子供たちを支えていた時代』という 世界で生きることを選択したことから生じた思いだった。 Nさんの世界に入って寄り添い、否定せず じょじょに「この人は安心できる人」と認識して頂くことで 落ち着いて頂くまでの時間を短くする。 穏やかな気持ちになられたところで、ぼくのほうからお願いし 他のみなさんの夕食の準備をお手伝い頂く。 そうすることで夕食の準備をする対象を 「家族」から「この人ら」に変換できたことで Nさんが構築した世界と現実の世界を結び付けて1つにすることが出来た。 そしてNさんから、夕方の焦りが消えていった。 Nさんはその後、「人の役に立っている」ことで、ご自分の居場所を見出され 職員のするいろいろな業務を笑顔で手伝って下さり その後、体調を崩されるまでの数年間をほんとにイキイキと過ごされた… 今から13年前のお話です。